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なぜ私は内容を思い出せないのに本を読むのか|『暇と退屈の倫理学』

「あなたの趣味は?」と聞かれると私は読書だと答えるようにしている。趣味を答えることは私にとって難しい。

難しいと感じるのは趣味を公言することはある種の危険性を孕んでいるからだ。それは同じ趣味を持つ人が知識の豊富さや歴の長さや技術力の高さで優位性を示してくることがあるからだ。

私は、趣味とはプロや専門家としてではなく単純に楽しむために行う事柄であると定義している。

それにも関わらず、趣味に関して知識の豊富さとか歴の長さとか技術力の高さを基準にされると私はそれらに関して劣っているのでこれを趣味と言ってはいけないのではと思い込んでしまう。

趣味とは単純に楽しむために行う事柄だと定義している私が公言してある趣味が読書ならば、私は読書を純粋に楽しんでいるのだろうか。

本を読むことは楽しい。楽しいのだけれどそれと同時に退屈であるのかもしれない。

本はそれなりに読んでいるのに、本の内容をいまいち思い出せないことが多い。

本を読んでいる時にあと何ページで読み終わるか何回も確認してしまう。

作者が伝えたいことを理解できているんだろうか、どんな感想であればこの本を読んだと証明できるだろうか、なんてことを考えながら文字を追っている。

流行についていかなければという焦りと、高尚な感想を述べなければという強迫観念がそうさせているのかもしれない。

結末を知りたかったり、感想を述べたかったりするだけならそれだけを調べればいいんじゃないか。

良い意味でも悪い意味でも情報が見えすぎる世の中であるため、そこら中に感想が溢れている。ネタバレが溢れている。

どうせ私はたいして本の内容を覚えていないならば、他の人の感想を見たり、あらすじや結末のネタバレを見たりすれば実際に本を読まなくてもいいのではないか。

そうすることで実際に本を読んだことにできるのではないか。わざわざ時間をかけて本を読む必要はないのではないだろうか。

経験しなくても自分ごとのように語れる世の中で実際に経験する価値とはなんだろう。

・・・

そんなことを考えながら『暇と退屈の倫理学』を読んでいた。


『暇と退屈の倫理学』の言葉を借りれば、私は本を消費しているだけで浪費できていないのだと思う。

 たとえばグルメブームなるものがあった。雑誌やテレビで、この店がおいしい、有名人が利用しているなどと宣伝される。人々はその店に殺到する。なぜ殺到するのかというと、だれかに「あの店に行ったよ」と言うためである。
 当然、宣伝はそれでは終わらない。次はまた別の店が紹介される。またその店にも行かなければならない。「あの店に行ったよ」と口にしてしまった者は、「えぇぇ? この店行ったことないの? 知らないの?」と言われるのを嫌がるだろう。だから、紹介される店を延々と追い続けなければならない。
 これが消費である。

『暇と退屈の倫理学』國分功一郎p146-147


ここでは食の話をしているが、本に応用することもできるだろう。

おそらく私は「この本読んだよ」と言いたいのかもしれない。もちろん言いたい気持ちもあるのかもしれないが、それは二次的である。一次的な理由は質問された時の準備のためである。

趣味が読書と答えたならば次は、
「どんな本を読むの?」
「最近読んだ本は?」
「どんな本が好きなの?」
こういった質問が来るだろうと想像できる。想像というよりは、実際にこう質問されることが多い。

このような質問に答えるためには、本の名前だけではなく本の内容や感想を述べることが求められる。

ここで問題が発生する。冒頭でも書いたが、私は本の内容をあまり覚えていないことが多いのだ。

そうなった時にちゃんと答えられるように、本を読みながらとりあえずの感想を考えたりしているのだ。

そう、本を読みながら感想を考えている。

自然発生的に感想が出てくるのではなく、人工的に感想を作っているような感覚なのだ。本を読んでいるはずなのに感想を考えている。

いつからこうなってしまったのだろう。

ここで『暇と退屈の倫理学』の言葉を思い出す。

 たしかに私たちは毎日食べている。しかし、実は食べてはいないかもしれない。単なる栄養として物を口から摂取しているかもしれない。あるいは、おいしいものをおいしいと感じているのではなくて、おいしいと言われているものをおいしいと言うために口を動かしているかもしれない。

『暇と退屈の倫理学』國分功一郎p344


良い本だと言われているものを良い本だと言うために本を読んでいるのかもしれない。本好きとしてこの本を読んだと言うために本を読んでいるのかもしれない。

いったい私はいつからこうなってしまったのだろう。いつから本を読みながら本を読まなくなってしまったのだろう。

いつから本を読むことが好きだというために本を読むようになってしまったのだろう。

高校生の頃くらいまではとにかく読書が楽しくて仕方なかったという記憶がある。どんな本を読んだかは思い出せるが、やはり本の内容はあまり覚えていない。

だからといってあの時に感じた本を読むことの楽しさが奪われるのだろうか。

本を読むことは好きだったのに読書感想文は苦手だった。

本を読むことは好きだったのに読書好きを公言しているわけではなかった。

冒頭の私なりの趣味の定義に戻ろう。

「趣味とはプロや専門家としてではなく単純に楽しむために行う事柄である」

結論や感想を述べたいだけならネットで調べて情報を得ればいい。

私はどうせたいして内容も覚えていないのに時間をかけて本が読みたいのだ。なぜなら読書が楽しいから。本を読んでいる時間が特別なものだから。

そういった単純で純粋な気持ちを思い出したい。

陳腐な結論になったと思われてしまうかもしれないが、これが私が本を読む理由のうちの一つなのかもしれない。

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レオン
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