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犬は言葉をしゃべらない
犬は言葉をしゃべらない。
盲導犬には吠えもない。
だけど喉から鼻から漏れる空気の振動が何かを伝えてくる。
はっきりした言葉にはならない曖昧な空気の振動にもはっきりとした感情が乗っていて、私は彼女の言わんとすることを読み取る
犬は人に比べたらほとんど表情もない。
そもそも私にはそれだってよく見えない。
だけど表情の代わりにコロコロとよく変化する長いしっぽの動き、歩くときのハーネスを引く力、体が発するありとあらゆるものから私は彼女の心の動きを読み取る。
もちろん、私は言葉を使う。
それを彼女は聞いている。
私が発した言葉の相当数はおそらく理解できている。
だけど、彼女から言葉が返ってくる事は無い。
いつだって静かで真顔。
犬との生活は毎日同じことの繰り返し。
毎回おしっことうんちに付き合い、散歩に行き、ブラッシングをして足を拭き、食事を与え、昼は窓際の夜はストーブの前のお気に入りの定位置にマットを敷いてやるとそこに寝そべる。
どこかに出かける「お仕事」の時以外は、盲導犬だって犬。
毎日同じ時間に同じルーティン、同じような動作を繰り返す。
排泄の時クンクンと鍵回るポイントはいつも同じ。足を吹こうとタオルを足に近づければセンサーが働いたように4本の足が順番にひょい、ひょい、と持ち上がる。
夜はおしっこさせようと、外に出るため玄関の上がり框に来たところで必ず立ち止まり、私がおしっこの上にかけるための水が入ったペットボトルを手に持たないと動こうとしない。
就寝時間になって寝床に入るように促すと、それを拒否する3歳児のように倒れ込み、お腹を見せて、撫でろ撫でろとアピールして、ひとしきり甘えることに気が済んだら、突然立ち上がり全身ブルブルッとしたあと、しれっと寝床に入って行く。
もはや儀式のように。
プログラムが埋め込まれたロボットのように。
いつでも静かに、真顔で。。
それなのに、こちらは飽き飽きして嫌になるどころか毎日毎回面白くて、何とも表現しがたい柔らかで暖かなものがじわじわと体の中で増殖してゆくのはなんでだろう。
それはきっと、犬が言葉をしゃべらないから。
言葉は、言葉になった時点からその隙間にあった雑味を全部ふるい落としてパッケージングされ缶詰にされ、温度を失った商品のようになってしまう。
決してほどけることのない複雑に絡み合った、でもその隙間に空気を含んで緩く軽く集合した、糸くずのような感情の塊が、体の中を通過して口から出た瞬間、合成樹脂で固められゴムボールになって落下し、ぽんぽんと跳ねたあと勝手にトレイの中に収まってゆく。
喉や鼻を通過して身体の外に放出される空気の振動は、同じ音のようでいつも微妙に違う。
ぶぅーとか、くぅーとか、文字にしてしまうとそれ自体何の意味も持たないけれど、言葉よりもはるかに収拾のつかない、生の感情が体から漏れ出した音なのだ。
うんちのときのタイミングや、散歩のときの歩く速さ、くつろぐときの寝相だって、いつも同じようで毎回違う。
言葉をしゃべらない人がそっと静かにそばに来て私にお尻をくっつけて座る時、そのくっついたお尻は何か要求を物語る。
そんな、言葉にはならない曖昧なものを、パッケージされず永遠にまとまらないものを、私は日々受け止める。
言葉のない世界は単純で、でもどこまでも深い。
つかめそうでつかめないものが私を飽きさせず楽しませる。
言葉を持たない人とのやりとりは、それを文字データとして脳だけに留めることなく、身体じゅうの細胞とその隙間に身体の記憶として埋め込む。
その体の記憶が、いつしか私の中に充満する柔らかくて温かいもの、言葉に置き換えてしまうなら、つまりは愛情というものなのかもしれない。
子供が小さくてまだ言葉をうまく操れなかった頃は、同じような態度で子供と向き合っていたのだろうか、と今になって思い返す。
人間は残念ながら言葉を獲得するにつれ、いつのまにか相手を見ることを忘れ、言葉のやりとりだけで世界のすべてをわかろうとしてしまう。
子供がまだ赤ちゃんでベッドの上のくるくる回るモビールを無言でただ見つめていた頃、静かすぎる二人きりの部屋で「早く言葉をしゃべらないかな」と願ったものだが、もしも人間が生まれた瞬間から言葉をしゃべれたら、子供に対する愛情はもっとよそよそしいものになっていたに違いない。
言葉のない、あの動物的な時間があってこそ大人になっても消えない、あの特有の子供への絶対的な愛情が作られるのではないか。
言葉を喋らない犬と、
言葉を頼りにする目が不自由な人。
私はただ可愛い犬と暮らしているのではない。
盲導犬と暮らすということは、自分の行きたい所には自分の一部として連れて行き、そのかわり彼女の生理現象にはすべて付き合うということだ。
勝手に1人でおしっこはしないし、1人で留守番することもほぼない。
聞き分けのよい、でもずっと赤ちゃんのままの赤ちゃんをおぶって過ごすような覚悟も多少必要だ。
相手の都合は相手のものじゃなく、相手の都合は自分ごとになる。
時には彼女が人として、私が犬として、別々の種の別々の身体がほとんど一塊のように、互いの時間を一緒に生きる。
そうやって、言葉のない人(犬)と付き合っていると、私の中に言葉でないものが満ち満ちてくる。
決して言葉には置き換えたくない、モヤモヤしたまま、よくわからないまま、酸素のように体じゅうに行き渡らせて、焼く前のパン生地みたいにずっとなまのまま体の中に膨らませておきたいもの。
言葉のある世界が上位で、ない世界が下位というわけではない。
言葉が悪いということでもない。
言葉の世界の隙間には果てしない官能の世界がある。
この静かでどこまでも自然体の生き物は、何も語らないけれど多くを語り、それを教えてくれる。
言葉のない人と
言葉を頼りにする目がよく見えない人。
それでもこうして一緒に生きていけるのだ。
***
私は目で本が読めない。
病気や障害で髪の本が読めない人のために音声や点字に訳された本のデータを集めた「サピエ図書館」というのがある。
それを利用して、時々、家族が読んでいる本をこっそりとインターネットで検索し、頭の中を覗いたり乾燥を言いやったりするのをささやかに楽しんでいる。
(ただし、すべての本が訳されているわけではないのでヒットしなくてがっかりすることも多いのだが。)
そうやって、家族がきっかけで軽い気持ちで読んでみた「ひきこもり図書館」(頭木宏樹編著)。
このアンソロジーに収録されていた「私の女の実」という短編2惹き寄せられ、韓国の作家ハン・ガンの作品を立て続けに読んだ。
なんかこの人、惹かれるなぁ。
それだけで何の予備知識もなく次々と手を付けて3冊目。
「ギリシャ語の時間」。
視力を少しずつ失いつつある男性と、言葉を失った女性の話だった。
私とそっくりな症状の男性にはじめは注目していた。でも読み進むうちに「はて?この女性は…」となった。
そう、うちの犬。盲導犬。
私のパートナーだ!
そう思って2度目を読み返すと、女性を犬に置き換えてもおかしくない。
全身黒ずくめなのもあの子と同じ。
おかしくないけど可笑しい。
読み終わると、犬と一塊になって過ごしてきた私が最近感じている、言葉では説明できない「体の中にある何か」を、少し解き明かしてくれたような気がした。
言葉では表現できないことも、結局言葉によって意識されると言うのもまた事実。
そして私がまたそれをこうして言葉にする。
考え始めると、これもまた収拾のつかない楽しくて面白い世界に引きずり込まれてしまうけれど、ものすごく簡単に言い切ってしまうとこういうことなのだと今の私は考える。
意識と感覚。
思考と感性。
体では考えることはできない。
頭では感じることはできない。
だからどちらも忘れない。
どちらかだけに偏らない。
それが人間に生まれて人間を続ける
ということ。
犬と1冊の本から、思わぬところにたどり着いた。