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今ここにある生命


11月26日。
兄が生まれた日。

そして、兄が生きられなかった日。

母の腕の中で、産声を奏でることなく、息を引き取り、ひどく落ち込んだ両親の元に
私の生命が宿ったんだって。

私も、健康に生まれてくることは叶わなかったのだけどね。

早期出産だったからか、真っ青な顔色で生まれ、緊急病院送りになってしまったらしい。

生まれて間もなく
カプセルの中に入れられて治療をした影響か
他の子供よりも知能が低く、
3歳の頃にASDと診断された。

その頃くらいから度々兄の話を聞く機会があり、両親にとって「兄」の存在が宝物であることを実感していた。
私の中でも会ったこともない兄の存在が日に日に大きくなり、自分に兄がいることが当たり前のように感じるようになっていった。

┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈

小学高学年〜中学生の頃、

兄の話をされる度、
自分の比較対象にされている感覚に陥ることが増えた。

思春期真っ只中だったこともあり、
ASDの症状や周りにレッテルを貼られてしまうこと、
何よりもきょうだい(弟・妹)が
きょうだい児であるが故に心無い言葉を浴びせられる場面が増え、生きた心地がしなかった。

兄だったら
疾患の症状に怯えることなく、
一般人として元気に生きられたのだろうか

私よりも頭が良く、きょうだいにも
苦労を追わせることがなく、
「良き兄」として慕われていたのだろうか

当時どこかで聞いた話が
ガムみたく、
脳みそに張り付いている。

「もしも兄が生きていたら、私もきょうだいも生まれていない。兄には別のきょうだいがいたのかもしれないね。」と。

ふしぎな話だよね。
あれから何度も調べているけど、
どうもほんとうの話みたい。

運命?
詳しくないから曖昧なことしか言えないけど、
生命の流れがその時々で付き纏うんだって。

きょうだい同士を天秤にかける
なんてすべきじゃないけど
思春期の私は平気なふりして考えてた。

最低だよね。
どっちも大切なはずなのに。

いきついた答えは
やはり「兄が生きていたら…」だった。

私が姉である以上、今あるきょうだいは
一生背負わなければならないものがあると思うと辛くてたまらなかったから。

┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈

時々そう感じながら
痛い想いをして、
大人になった。

「人生の流れ」のせいだろうね。

実は
弟が7年前に亡くなった。
自ら決めたこと
らしかった。

私が高校生の頃だった。

きょうだい児が辛い
と感じたからだろうか…というのは
勝手な想像だけど、
そうでもしないとわからない程、
弟は何も残さなかった。

弟のこと、
少しづつ忘れている。
一生忘れられないと思っていたけど、
あっさり弟がいない日常が前提の、
「当たり前」に変わっていった。

兄は元々
家族間、私の中でも
この感覚で存在していたことに気づいたとき、心が空っぽになった。

これも「運命」だったろうか。

それなら何故、
兄は、弟は、
生き続けることができなかったのだろうか。

私は今も尚
自分が生き続ける意味を模索している。

だから少しづつ、
日々のトキメキにはぐしながら生きていけるように
トキメキを探り、
夢も見つけた。

ここまでくるのには相当時間がかかったし、
これからも傷は完全に癒えることはないだろう。

でんぱ組inc.の
「あした地球がこなごなになっても」
という曲の歌詞に
「オーロラみたいなメイクして最低!ってそう言って死んでやる」
というものがあり、
この曲をきく度に勇気をもらってる。
言葉が強いのに、真っ直ぐで、
後ろ向きな青春だなあなんて。

いつも前を向かなくても良くて、
自らの現状を受け入れて、
頑張らずに、生きることで、感じられる
「幸せ」もあるのかもしれない。

何せ模索中ですから
まだまだ未知で、しんどいんです。

ただ、
この生命に「意味」があるなら
自分なりの方法が分からないなら、
せめて自分のそばにいてくれる人のことを
いつまでも、いつまでも
大切にしよう。
今はそう思っています。

恐怖心は捨てなくてもいいから、
自分なりにすすんでいけるように。

┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈

お兄ちゃん、お誕生日おめでとう。

生きててよかったと思える人生にできるように
生きていくね。


✩.*˚

♡  余談かも  ♡

明日11月27日は
弟の誕生日なんです。

弟、お誕生日おめでとう。

そして兄のお誕生日、11月26日の
6反対の9(11/29)が私のお誕生日です…笑

これに最近気がついたとき、
こじつけがすぎるかもしれないけど、
奇跡だと思った。

兄が私を生かしてくれているのかな〜とかね。
そうでも考えないと、辛いからね。

でももしそうなら、
両者の存在意義を感じられる気がして
うれしいな。

それに、
生きた時間が短くても
生まれてきた命の想いはずっと続いていくのかもしれない
ということはずっと感じています。

両親が
私が生まれてからずっーと
兄の話をしてくれたことだって、
兄が「存在した証」があるからで、

やっぱり両親の中では
生まれた命、全てが宝物で
私にもその想いを受け継いでほしいと願ってくれていたからなのかもしれません。

そのせいか、
毎年この日(11/26)を
決して何事もなく通り過ぎることは出来ない自分がいて、何かしらでお祝いをしています。

そういえば、
小学生の頃には
長女であることに悩んだ時期に「兄」が確かにいてくれている事実に縋って手紙を書き、
お空の兄へ届けようとしたことがありました。

幼かった私は窓から手紙を飛ばしてしまい、
その後無事お空へ…ということはなかったかもしれないけれど、想いを届けることは
ずっと大切にしてきたな〜って。

それから
大学生の頃には
友達に兄の誕生日の話をしたら
お祝いにお菓子をくれたことがありました。

「ここにいた証」があっただけで
想いのバトンで溢れていく。
すごく尊いことで、涙が溢れてしまう…

想いがあるなら
誰かのいない日常が当たり前のように流れていっても、特別な日にはいつも一緒にいられるでしょうか。

そう思えたらちょっぴり
前が向けそうです。

そのために「今ここにある生命」
開拓したい、
幸せになりたい。

絶対幸せになります。






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