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見切り
日経平均株価が4万円を超えたと報じられているが、「だから何?」という感じだ。
このニュースのどのあたりを見ればポジティブになれるのか見当もつかない。
昨日の夜中、腹痛で目が覚めた。
夕食には値引きシール付きの牛肉の薄切りを食べたが、消費期限を1日過ぎてしまっていた。
臭いを嗅いだが、特に異常なしと判断し、念を入れてよく焼いたつもり。
見切り品の肉のせいかどうかはわからない。
胃腸薬を飲んですこし収まった隙に寝ようとしたが、なかなか寝付けない。
今日は仕事が休みなので、8時過ぎまでベッドで過ごした。
睡眠時間は3時間くらいか。
介護をしていたときは、それくらいどうということもなかったが、肩の荷が降りたのと同時に緊張感が切れてしまったのか、ちょっとしたことが不調につながる。
加齢のせいだと言ってしまえばそうなのだが。
濃い珈琲は、胃に負担をかけるとわかっていたが、習慣で入れてしまった。
トーストを食べながらまだ受注していない副業のために予習として資料を読む。
受注できるかどうかわからないのだけれど、知識や情報として持っておくのは損ではないと思っている。
知っているということだけで得られる満足感もある。
BGM代わりに、今日はテレビで中継されている国会を流した。
気になる質疑が聞こえると、手を止めて見入る。
そんなことで資料が頭に入るのかと言われそうだが、それでも初見との差はあると思う。
目が「画像」として文字の羅列を覚えていて、「この文字の連なりを見たことがある!」と感じて、書かれている事象との距離が一気に詰まるということがあるのだ。
その分だけ、興味深く仕事ができる。
これは資料に限っていて、小説はこんな読み方はしない。
小説は、没入感を楽しみたい。
そして没入すると、たとえテレビでロックが流れていても聴こえなくなる。
しかし最近は、ほとんど小説を読まなくなった。
コロナで大型書店に行く機会が減ったのはきっかけのひとつだが、その前から読みたい本が見つからないというのがあった。
これは、加齢とともに加速している。
「我慢して読む」ということがなくなった。
若いころは、最初は乗らなくても、我慢して読み進めていくうちにきっと面白くなるだろうという期待で読めた。
いまは、その判断というか見切りが早い。
書店で本を探すとき、あとがきや初めの数ページを読むのは昔からだが、いまは冒頭の数行で見切ってしまう。
ストーリー云々よりも、文章が肌に合うかが優先されてしまう。
その基準は羅列できるような条件ではなく、直感的なもの。
ドラマもそうで、1回目を見て、昔は2回3回と試していたけれど、いまは初回の5分10分で「これは無理」と感じて見るのをやめてしまうことがある。
そういうことで、去年の大河ドラマは見なかった。
人もそうだ。
回を重ねてつきあいを深めれば、いい関係を築けるかもしれない人と、最初のわずかな時間で「無理」と判断してしまいがち。
仕事関係はそうもいかないけれども、最初の印象にひきずられるのか、接しなければならないときには気が重くなる。
年を重ねると鷹揚に、寛容になるのかと思っていたが、私の場合はそうではないらしい。
これでも、いままでいろいろ我慢してきたのだ。
そのツケを相殺するごとく、我慢して続けるという行為をいま放棄している。
叱られるかもしれないが、残りの人生は「忍耐」と無縁の時間を過ごしたいと思っている。
お昼ごはんに何を食べていいかわからずに夜になった。
胃のあたりが気持ち悪いが、昨夜の痛みが尾を引いているのか、それとも空腹のせいなのかよくわからない。
冷凍してあるご飯で、中華がゆを作ろうと決意したところだ。
中華だしと木綿豆腐と溶き卵とごま油を入れる。
食欲のないときの私の定番料理だ。
明日は出社の予定。
早々に「無理」と感じた人との打ち合わせが入っている。
私が見切っていることを周囲には悟られないふうに振舞っているので、相手が揚々としているのが一段としんどい。
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