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珈琲、ゴジラ、七夕

朝6時前に目覚めて、リビングのサッシを開けると、どろりとしたぬるい空気が部屋を侵略し始めた。
昨夜のゲリラ雷雨の湿気をまだたっぷりと残したゼリーのような空気だ。
未練がましい侵入は断固として拒絶する。
窓を閉めて、エアコンのスイッチを入れた。

冷房をつけたまま眠った寝室は、設定温度28℃なれど、気温の上昇にまかせていたリビングよりははるかに涼しい。
寝室に戻って2度寝しようと思ったが、眠気は去っていた。
ベッドに寝転がって、「おはようバッハ」を聴く。
こういう何気ない、どうでもいい時間を、生きていくのに必要なものだと感じている。

いつもよりすこし「寝坊」をして、7時にベッドを離れる。
リビングは冷房の効果で快適になっていた。

一昨日に続いて洗濯。
一人暮らしなのにもったいないと思うけれど、夏場はどうしても洗濯機を週2で回してしまう。
1日に何度もシャワーを浴びてしまうし、シャワー後は汗のついたものを着たくないという気持ちになって、洗濯物がどんどんたまる。
さして汚れていないと思うのに、ちょっと汗がついたくらいで都度洗うのは、生地も傷むよなぁ。
ちょっと鮮やかなパジャマやTシャツの色柄も、そう間もあかずに褪せている気がする。

年々、暑さに弱くなっているのは、老化のせいなのだろうか。
年をとれば暑さや咽の渇きを感じにくくなると言われるけれど、私はどんどん暑くなっている。
病気なのかしらと思うくらい、汗もたくさん出るので困る。

今月になって初めて、朝、熱い珈琲をいれた。
最近は、朝食を食べる元気もなくて、あっても冷たいスープか冷たい味噌汁だけということが多い。
これではいけないと思っていたので、とっておきのマンデリンをいれて、イギリスパンのトーストを食べた。
やはり、朝、珈琲の香りが漂うのはいい。
幸せな気持ちになれる。

昨夜は、アカデミー賞のナントカ部門を受賞したという「ゴジラ-1.0」をwowowで初視聴したが、開始15分で興味を失い、あとはただのBGMと化した。

序盤の攻撃のシーンや戦後まもなくの部隊や爆撃後の街の画像に、すこしもリアリティを感じず、どこが受賞に値するのかまったくわからなかった。
わざと、「初期の未熟な技術で昭和っぽさを出そう」としているのかもしれないが、私の好みに合わなかった。
戦争で破壊された町や家々のシーンも、朝ドラのセットみたい。
それを無理やり画像処理で映画っぽくしてあるのがさらにわざとらしくて、脚本、演出ともども、押しつけがまさを感じて気持ち悪くなってしまった。
全体として、なにもかもが子供っぽい。
「三丁目の夕日」なら問題ないことが、「ゴジラ」では受け入れがたい。

1954年のゴジラは、興行当初には生まれていなかったけれど、あとになってテレビで何度も見た世代だ。
子供ながらに、戦争や原水爆の怖さを感じた。
ゴジラは私にとって、怖いものではなく悲しいものなのだ。

これに比べれば「シン・ゴジラ」のほうが、よほど楽しめた。
もっと「大人向け」という気がした。
政治家や官僚たちがどういうふうに右往左往し、決断し実行するかを見ているのが面白く、終盤以外は、「来るぞ来るぞ」の緊張感だけで、ゴジラの登場すらなくてもいいと思った。

ただし、ウルトラマンはオンタイムで全話見ていたせいもあって、「シン・ウルトラマン」は開始早々に「ウルトラファイトかよ」と思い、途中離脱した。
仮面ライダーも「シン」化したらしいが、こちらは、そもそも元からして見ていない。
私は「虫」が嫌いだから。

「泣ける」と謳われたものが苦手。
「感動の嵐」とかいうコピーを見ると、引いてしまう。
「ここは感動のしどころですよ」「ここが泣けるポイントです」というのがうざい。
だいたい「泣ける」ってなんだ?
人の心を扇動し、洗脳し、支配しようとするような、あるいは「大勢」から外れた人を排除しようとするような怪しい宗教の気配を感じて気持ち悪い。

だから、大勢の人が絶賛したとしても、私は昨日の「ゴジラ-1.0」にまったく感動できなかったことは、しっかりここに書き残しておく。

七夕に空が晴れているのは珍しい。
天候に関わらず、織姫と彦星の出会いは、うちの空では見えようもない。
けれども、この夜、水を張った盥にふたつの星を映して逢瀬を眺めるという風習には、いまも憧れがある。

「汗ばんだ 肌を這うのは 風の指 紅を拭うは 雨のくちびる」


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風待ち
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