心は回転多面体~映画「ある男」~
いまさらかもしれないが、ネトフリで映画「ある男」を見た。
原作は未読だが、作品に込めた著者の思いをどこかで読んだ気がする。
そのとき「分人」という概念に共感したことを、映画を見て思い出した。
「『強いね』と言われて傷ついた頃があった」と、書いたのは2年前になる。
不登校の時代は、おそらく「弱虫」と言われていただろう。
昭和の世の中には「いじめられたらいじめ返して来い」「いじめられるほうにも落ち度がある」という意識があった。
自分自身も「これじゃいけない」と認識しながら、同時に「これでいいんだ」とも思い、しだいにシーソーの上で上がったり下がったりする自分、板の真ん中で必死にバランスを取ろうとする自分、それらのすべてをひっくるめて「どれも私」だと感じるようになった。
私の心は回転多面体なのだ。
映画の感想の中には「ラストシーンに納得できない」というものもあって戸惑ったが、「そういうものか」とも思う。
そうだな。
生まれ変わってもこの両親の子でいたいとか、この人とまた結婚したいという人もいるもんな。
私は母も兄もとても好きだったが、もし次があるなら、まったく違う環境を望む。
別人になりたいと思わない日は、これまでの人生でたぶんなかった。
ある日突然、黒い大きな車が私の前に停まって、降りてきた「じい」が、「ずっとお探ししておりました、お嬢さま」とかしづくような事態ではなく、心も含めてまるごと別の誰かと入れ替わってしまうようなものを求めた。
思い出も経験もすべて別のものになり、その変化すら知らされないというもの。
そうして「あの窓の中のひとつとすっぽりと入れ替わったら」と、夕暮れ時に灯りが点いていく団地の窓を眺めていた。
以前のドラマ「ブラッシュアップライフ」を物語としては楽しく見ていたけれど、私自身はたとえいまの自分が20歳でも10歳でも、同じ人生を何周も繰り返すなんてとんでもないと思った。
もう一度同じ人生をたどるくらいなら、オオアリクイになったほうがマシだ。
よく8周とかする気になるな。
結末知りたさに最後まで見たけれど、つまりは何度繰り返しても「そう大差のない幸せな人生、そこそこ満ち足りた人生を送れる」こと、それが予測できること、その自信があることなどに、ちょっと嫉妬していたと思う。
映画「ある男」では、殺人犯の息子が別人としての人生を生きていく。
私は殺人犯の娘ではないけれど、それはたまたまそうだったに過ぎない。
呆けた父は、徘徊しては近所と悶着を起こした。
興奮すると、手当たり次第にものを投げたりつかみかかったりと攻撃的になった。
だから私は、父が誰かを殺めてしまう前に、私が父を殺ってしまおうと何度も思った。
それは人さまに迷惑をかけないためという正義感ではなく、殺人犯の家族になりたくなかったからかもしれない。
自分が親殺しになっても、人殺しの娘になるよりはいいと思った自分の感覚はいまもわからないままだ。
塀の中と外は、実際のブロック塀や有刺鉄線より、うんと越えやすいものなのだと思う。
他人の戸籍と交換して別人としてほかの人生を送れるものなら、私もそうしたかもしれない。
実際は、そういう事態には至らなかったが、それは私の人生の中でもっとも幸運なことだった。
そして、そういう葛藤の落としどころとして私が採用したのが「分人主義」だったという気がしている。
「自分探し」という言葉が苦手で、いまこうして書いていてもものすごく小っ恥ずかしい。
私はここにいるし、あなたもそこにいる。
「本当の自分」を、複数の中のひとつに決めたり、まだ見ぬ場面から引っ張り出す必要がどこにあろうか。
映画のラストシーンで、主人公と絵画の中の「ある男」とがリンクするが、これは私の心にはストンと落ちた。
嘘を是とするわけではないが、こんなふうに人は時と場合によっていつも誰かを演じ分けているのではないか。
そして、どの自分もみんな自分なのだ。
くるりと回って、いまあなたの目に映っている私も、ほかの人が別の角度から見ている私も私。