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人はみな修羅

ネトフリの「阿修羅のごとく」を3回まで見た。
NHK版のパート1部分までで一区切りとしたが、心の寄り道が多くて、まだドラマ自体の感想を書くに至らない。

NHK版は、本放送、再放送、再放送の録画(本放送時はまだ録画設備がなかった)、リマスター版BS放送と何度も見ている。
映画版は1度見た。

向田邦子が好きなだけでなく、彼女が描く世界への憧れのようなものがある。
頭は固いが、それなりに真面目に勤めているサラリーマンの父親。
出勤のときにはスーツを身に着けて、頭には帽子をかぶっている。
(麻生さんは嫌いだけどね。)
帰宅すると丹前に着替える。

食卓は家族が揃うのが当たり前で、父親が箸をつけるまで子供たちは食べることができない。
元旦には、まず父親が若水を汲むような家庭だ。
昭和の家父長制の良し悪しはまったく別として、私は幼いときからずっと、自分にも他人にも厳しい父親像に憧れてきた。

そういう父親が登場する世界には、庭に面して古い旅館のような椅子とテーブルのセットが置かれてあり、縁側のある茶の間には緞帳のようなカバーのテレビがあり、応接間には革張りのソファーがあって扉付きの書棚には百科事典と文学全集が並ぶ。
上段には何かの社内大会で優勝したようなトロフィーが飾られている。

男尊女卑も甚だしい父の命令には絶対服従を強いられ、そんな理不尽極まりない暮らしには、想像の中でさえ耐えられそうにないけれども、私はやはり憧れていたのだ。
それは、ある日突然黒塗りの車が停まり、「お探ししておりました、お嬢様」と執事が恭しく迎えてくれる妄想よりもずっとありえない「ないものねだり」の極致。

昔語りとしてそういう少女時代を回顧する文章を目にすることがあるが、多くの場合、価値観を共有する前にしんどくなって逃げだしてしまう。
なんのことはない、ただの嫉妬である。
そういう嫉妬を凌駕する世界が、向田邦子の描く物語だ。

だから私の見方は、ドラマ内に散りばめられた小道具や小ネタから昭和時代やその価値観を懐かしむというものではない。
同じ時代を過ごしたとはいえ、そもそも懐かしむような共通体験が私には少ないので、いつまで経っても憧れが憧れのまま存在する。

この前提が、私と他者とのものごとの感じ方の違いになっているのだと思う。
「阿修羅のごとく」も、そういう憧憬に満ちている。
嫉妬も疑念も怒りも含めて。

阿修羅さんは、元は善なる存在だったらしいが、さまざまな要因があって、生?のほとんどを帝釈天との戦いに明け暮れた。
私は、争いは好まないけれど、仏像は憤怒の形相が好き。
愛染明王や不動明王、それから十二神将のうちのいくつか。
阿修羅像も、有名な興福寺のほかは、もっと闘争や憤怒をイメージさせるものが多い。

穏やかなお顔の仏像に対して癒しより不安を感じるのは、自分の心の未熟さを突きつけられるからか。
それとも、平穏を脅かすなにごとかが「未だ」起こっていないだけという恐怖につながるからか。

去年の大河ドラマ「光る君へ」の最終回で、倫子が夫とまひろの関係について「私が知らないとでも思っているの?」と発したシーンが嫌いだった。
「阿修羅のごとく」でも、長女綱子の不倫相手の妻が乗り込んで来て水鉄砲を撃って留飲を下げる場面があるが、愛人の存在を知っても「言わないのが女」と言う母のほうに心が寄る。
戦わない局面にも闘いがある。

それは、私自身が夫の不倫や子について、知らぬ存ぜぬを通してあっさり別れたからかもしれない。
そういう自分を、怖い女だと思っている。
しかし、嫌いではない。

戦っているように見えない人も実は闘っている。
人はみな修羅だと思う。


「修羅の血は 藍か緋色か漆黒か 舐めてみせよか 濡らしてやろか」



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風待ち
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