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【書評?】東海林さだおの丸かじり もりたからす
高校時代の恩師が、東海林さだおの熱心な読者だった。偶然書店で見かけた際も、文庫本コーナー「サ行」の前に陣取って、既刊チェックに余念がなかった。ファンの鑑である。
この先生とは卒業後も交流が続いている。先生は「こういうものも読んでおきなさい」と言って、しばしば私に本をくれるが、そこにあれほど愛読している東海林さだおは一冊も含まれていない。
定年まで勤め上げた恩師から、成人した教え子へのプレゼントとして、確かに、『オッパイ入門』などはいささか適切を欠く気がしないでもない。
同じ随筆としては、薄田泣菫の著作をこれまでに数冊もらった。先生はもしかしたら、サ行難読名エッセイストしか読めない呪いにでもかかっているのかもしれない。
かくして私は、東海林さだおに関しては、せっせと自分で買い集めている。師弟2代に渡って自腹を切っているあたり、とりわけ文春文庫に対する貢献度はそこそこ高いのではないか。
東海林さだおは1937年東京生まれの漫画家、エッセイスト。早稲田大学中退。
私の祖父母よりも年上で、漫画連載歴だけでも半世紀以上とやら。
比較的新しい仕事であるところの、代表的飲食エッセイ『あれも食いたいこれも食いたい』でさえ、私が生まれる前から書き継がれている。(この連載の書籍化が、本記事のテーマでもある『丸かじり』シリーズ)
その著作体系を把握するだけでも容易ではない。
試みに、我が家の本棚からざっと引っ張り出してきた東海林作品のタイトルを並べる。
・人間は哀れである
・ガン入院オロオロ日記
・メンチカツの丸かじり
・サンマの丸かじり
・バナナの丸かじり
・目玉焼きの丸かじり
・サクランボの丸かじり
・アンパンの丸かじり
・ざんねんな食べ物事典
・焼き鳥の丸かじり
・マスクは踊る
時として哀れだったり、病気だったりしながら、よくもまあこれだけ様々な食品をかじってきたものだと驚き入る。
東海林さだお作品の特徴は、何と言ってもその軽さにある。平易で、ユーモラス。軽やかで、洒脱。上質な「しょうもなさ」が作中に一貫している。
東海林さだおの文章は、心を抉らないし、魂を揺さぶらない。そのような日常に寄り添う心地良さを、私はあらゆる芸術価値の上位に置きたい。
ところで、東海林さだおの文章には特徴がある。
改行が多い。
とっても多い。
やっぱり多い。
ほぼ一文ごとに段落が変わる。
改行に次ぐ改行。
段落に次ぐ段落。
原稿用紙の一番上のマスをほとんど使っていないのではないか、という疑惑がある。
改行が多いと、空白が目立つ。
空白が目立つと、不思議と何だか読みやすい。
東海林さだおほどの達人になると、1ページあたりのインク重量にまで気を配ることで、軽妙な文体を演出している可能性がある。
私は今、必要があって岩波文庫で出ている幸田露伴『一国の首都 他一篇』を読んでいるのだが、これがまた東海林さだおの対極にあるような硬質一辺倒の文章で、1ページに空白や段落どころか、まともに読める日本語すらほとんどない。誰か助けて欲しい。抜粋すると、
『明治の初め優勝者たるの地位を得て急に大模大様昂頭濶歩せる者、多くはこれ短褐弊袴蓬頭垢面の士なれば、その時を得るに及んでその欲する所を縦にしたるも、怪むに足らざる凡人の情のみ』
当人は意味が分かって書いているのだろうか。
対して我らが東海林さだおの文章は以下のようになる。
『ビーフジャーキーである。
どうです、このガチガチ。
まるで板。いや、まるきり板。
どうです、この立ちはだかり方。
ま正面、ま向かい、どーんとこいと、胸をたたいて立ちはだかっているではありませんか。』
(『メンチカツの丸かじり』所収『ビーフジャーキー立ちはだかる』)
軽い。ふわふわしている。こんなの絶対あれじゃん、ハチワレだってがんばれば読めるやつでしょ。
全体を通したこの風情にあって、時折ハッとするような思考の飛躍や論理の展開があるのも東海林作品の魅力だ。なにしろその辺の祖父母よりもずっと長く生きているから、ふとした場合の含蓄なども凄まじい。
『思い返せば虐げられ、蔑まれ、嘲られ、それに耐えぬいたこの風雪。
いまこそ臥薪嘗胆、盲亀の浮木、うどん華の花。』
(『バナナの丸かじり』所収『わが敵アルデンテ』)
盲亀の浮木、うどん華の花なんて落語『花見の仇討ち』に出てくる江戸っ子だってまごついていた語彙である。かよう現代ではまず滅多にお目にかからないフレーズも散見され、なかなかどうして油断がならない。
こういう知的で、肩の力の抜けた柔らかな文章を書くのは、私の印象では早稲田出身者に多い。飲食関係ならまずラズウェル細木が思い浮かぶし、村上春樹だって私は小説よりもエッセイの方がずっと好きだ。種田山頭火も早稲田。
三木武吉もそうで、飄々と生きることに人生を費やした人ばかりいて羨ましい。
そういえば10代のある時期、好きになる著名人が軒並み早稲田関係者だったので、ふと思い立って早稲田大学を受験してみたことがある。(通常、大学入試は思い付きで挑んではならない)
ところがこれが散々で、試験会場であった校舎は私がそれまでに見た全ての教育施設の中で最も古く(ちょっと大袈裟かもしれない)、トイレなどはどう見てもこの世のものとは思えなかった(こちらは大袈裟ではない)。
休み時間に4コマ雑誌を読んで息抜きをしているのは私だけで、他はみな東大の過去問を解いていたのも異様な光景だった。
極めつけが英語の試験問題。まさにちんぷんかんぷんであった。「次の文章を読んで下の問いに答えなさい」のような説明文までが英語なのだから困ってしまった。
以来、早稲田大学とは縁がないので、「都の西北には立派な人たちがいるなあ」などと思いながら鼻水をすするばかりの私である。