「論語」と「自己への配慮」5 パレーシアをできる人を育てる学校について
前回は政治的なパレーシアで、リスクを低くするには君主に信頼されてから、ということや司馬遷についても触れた。
このようなパレーシアをできる人を育てるために孔子は活動していたと言えるだろう。その学校について私は論語以外に何も情報を持っていないが、例によってフーコーにより古代ギリシアのエピクロスの学校の紹介をしてもらう。
では論語ではどのように語られるか:
教育が必要であること:
先進第十一
一九(二七二)
子張がたずねた。――
「天性善良な人は、べつに学問などしなくても、自然に道に合するようになる、というようにも考えられますが、いかがでしょう。」
先師がこたえられた。――
「どうなり危険のない道を進むことは出来るかも知れない。しかし、せっかく先人に開拓してもらったすばらしい道があるのに、その道を歩かないというのは惜しいことだ。それに、第一、そんな自己流では、所詮、道の奥義をつかむことは出来ないだろう。」
自己流でなく奥義を掴むにはちゃんと教師から学ぶべきと。
まず教えるに相応しい生徒である
憲問第十四
八(三四〇)
先師がいわれた。――
「人を愛するからには、その人を鍛えないでいられようか。人に忠実であるからには、その人を善導しないでいられようか。」
先生の要件である
為政第二
一一(二七)
先師がいわれた。――
「古きものを愛護しつつ新しき知識を求める人であれば、人を導く資格がある。」
何を教えるのか?
述而第七
二四(一七一)
先師は四つの教育要目を立てて指導された。典籍の研究、生活体験、誠意の涵養、社会的信義がそれである。
どう教えるのか?
子張第十九
一二(四八三)
子游がいった。――
「子夏の門下の青年たちは、掃除や、応対や、いろんな作法などはなかなかうまくやっている。しかし、そんなことはそもそも末だ。根本になることは何も教えられていないようだが、いったいどうしたというのだろう。」
子夏がそれをきいていった。――
「ああ、言游もとんでもないまちがったことをいったものだ。君子が人を導くには、何が重要だから先に教えるとか、何が重要でないから当分ほっておくとか、一律にきめてかかるべきではない。たとえば草木を育てるようなもので、その種類に応じて、取りあつかいがちがっていなければならないのだ。君子が人を導くのに、無理があっていいものだろうか。道の本末がすべて身についているのは、ただ聖人だけで、一般の人々には、その末になることさえまだ身についていないのだから、むしろそういうことから手をつけるのが順序ではあるまいか。」
興味深いことに、フーコーは生権力として中世キリスト教教会では司牧論が優勢と考えた。それは人々は迷える羊で、彼らを導く牧者=聖職者というようなことである。デリダはさらに人民を家畜に例えるのはアリストテレスが言っていると「獣と主権者1」でツッコミを入れていた。それが東洋に来ると人々は動物ではなくて草木に例えられている。元の文は「譬諸草木、區以別矣。」である。
またこの翻訳はかなり補っている。興味ある人はこちらを
このように、古代ギリシアでも人々を導くのに「柔軟に」とフーコーは言っているし、論語では一人ずつ取り扱いを変えると言ってますので用の東西を問わずきめ細やかに人を導くという点では一致しています。一方、西洋では人々を動物、それも群れを導く比喩で、東洋ではそうではなくて、植物に例える例がある、ということがわかりました。論語の他の箇所では動物に例えられているかもしれません。東洋では伝統的に植物に例えると言っていいのかどうか、知っていたら教えてください。
また気になるのは,先生の要件として古いものを尊重しつつ新しい知識を求める人とあるのですが,論語を大事にして新しいことをしようとした例として渋沢栄一を今思いつきました。渋沢栄一の新札の発行が間近ですね。
渋沢栄一が大河ドラマ化され、論語と算盤という本が話題になりました。中身を見てないのですが論語に対して、どのような態度なのでしょうか?今日的に都合の悪いところへのコメントにこそ興味があります。今後調べたいことです。
そろそろ長くなりましたのでまた次回に。