ChatGPTによる真理の勇気 その2 ギリシア哲学をキリスト教に接続した偽ディオニシオスのパレーシア
前回はギリシアの哲学のパレーシアの政治的な面と聖書の中の具体例、それをChatGPTでギリシアの原文からのデータ変換を検討。フーコーの指摘により聖書においてパレーシアに「神の愛への信頼、最後の審判の日に神が人間を迎え入れるやり方への信頼」が加わっているを見ました。そしてパレーシアは神秘主義の一つの極であるとフーコーは結論します。フーコーはその後、もう一つの極としてバレーシアに懐疑的な態度を取る人々いわば反パレーシアを説明しています。これについては長くなってしまったので、後にして、今は結論的にネガティブなパレーシアは神への畏怖を忘れた傲慢なものいい、という意味でパレーシアすることは危険だという位置付けもあったというにとどめましょう。
そのパレーシアをネガティブに受け取る一派は、神との関係をポジティブに捉える人々のことを気楽に捉えている,傲慢な人々、と批判したのだろう。前々回紹介した偽ディオニシオスは神秘主義に分類されている。その主著の「神名論」はエリウゲナにより翻訳されクリュニーに入って後世に大きな影響を与えた。「愛」であるアガペー、エロスや「美」についてなど。その全貌の紹介は私には無理なので、ここでは、パレーシアに絞って覗き見的に調べてみよう。
調べる仮説や作業としては、まず偽ディオニシオス文書にパレーシアがあるかどうか調べる、もしあれば、神秘主義に分類してあるのでパレーシアはポジティブであるはずである。その場合、さらに、政治的なパレーシア、哲学的なパレーシア、神学的なパレーシアのいずれの区分か検討しよう。
さて、テキストをダウンロード<https://maksimologija.org/dionysius-peri-theiwn-onomatwn/>して実際にパレーシアについて検索するとわずか3カ所。しかも4章に集中している。よかった、あって!なかったらここで終わってました。
早速その箇所を抜き出してみよう。
パレーシアの意味とその内容に集中します。なお、キリスト教神秘主義著作集1(教文館)熊田陽一郎訳(1992年)を最小限引用させていただきます。
4.10 キリスト教神秘主義著作集1(教文館)熊田陽一郎訳
該当ページ p180 159
Παῤῥησιάσεται δὲ καὶ τοῦτο εἰπεῖν ὁ ἀληθὴς λόγος, ὅτι καὶ αὐτὸς ὁ πάντων αἴτιος δι’ ἀγαθότητος ὑπερβολὴν πάντων ἐρᾷ, πάντα ποιεῖ, πάντα τελειοῖ, πάντα συνέχει, πάντα ἐπιστρέφει, καὶ ἔστι καὶ ὁ θεῖος ἔρως ἀγαθὸς ἀγαθοῦ διὰ τὸ ἀγαθόν. Aὐτὸς γὰρ ὁ ἀγαθοεργὸς τῶν ὄντων ἔρως ἐν τἀγαθῷ καθ’ ὑπερβολὴν προϋπάρχων οὐκ εἴασεν αὐτὸν ἄγονον ἐν ἑαυτῷ μένειν, ἐκίνησε δὲ αὐτὸν εἰς τὸ πρακτικεύεσθαι κατὰ τὴν ἁπάντων γενητικὴν ὑπερβολήν.
ChatGPT
「しかし、真実の言葉はこれを断言できます。それは、すべてのものの原因である神は、その無限の善意によってすべてを愛し、すべてを創造し、完璧にし、すべてを保持し、すべてを回復し、神聖な愛そのものであることです。実際、すべての存在を善で充たす神聖な愛は、善の中で超越的に存在し、それを自分の内部で停止させず、すべての存在を超越的な善に向かって運動させました。」
熊田先生はパレーシアのところを「腹蔵なく語る」
このように、神の愛と善を全面的に信頼する内容です。聖書の方向性そのままですね。
4.19 二行目 同書 p188、 188節
Ταῦτα μὲν οὖν ἴσως ἐρεῖ τοιόσδε ἀπορῶν λόγος,
ἡμεῖς δὲ ἀξιώσομεν αὐτὸν εἰς τὴν τῶν πραγμάτων ἀλήθειαν ἀποβλέπειν
καὶ πρῶτόν γε τοῦτο εἰπεῖν παῤῥησιασόμεθα·
Τὸ κακὸν οὐκ ἔστιν ἐκ τἀγαθοῦ, καὶ εἰ ἐκ τἀγαθοῦ ἐστιν, οὐ κακόν, οὐδὲ γὰρ πυρὸς τὸ ψύχειν οὔτε ἀγαθοῦ τὸ μὴ ἀγαθὰ παράγειν. Καὶ εἰ τὰ ὄντα πάντα ἐκ τἀγαθοῦ, φύσις γὰρ τῷ ἀγαθῷ τὸ παράγειν καὶ σώζειν, τῷ δὲ κακῷ τὸ φθείρειν καὶ ἀπολλύειν, οὐδέν ἐστι τῶν ὄντων ἐκ τοῦ κακοῦ. Καὶ οὐδὲ αὐτὸ ἔσται τὸ κακόν, εἴπερ καὶ ἑαυτῷ κακὸν εἴη. Καὶ εἰ μὴ τοῦτο, οὐ πάντη κακὸν τὸ κακόν, ἀλλ’ ἔχει τινὰ τἀγαθοῦ, καθ’ ἣν ὅλως ἔστι, μοῖραν. Καὶ εἰ τὰ ὄντα τοῦ καλοῦ καὶ ἀγαθοῦ ἐφίεται καὶ πάντα, ὅσα ποιεῖ, διὰ τὸ δοκοῦν ἀγαθὸν ποιεῖ καὶ πᾶς ὁ τῶν ὄντων σκοπὸς ἀρχὴν ἔχει καὶ τέλος τἀγαθόν, οὐδὲν γὰρ εἰς τὴν τοῦ κακοῦ φύσιν ἀποβλέπον ποιεῖ, ἃ ποιεῖ, πῶς ἔσται τὸ κακὸν ἐν τοῖς οὖσιν ἢ ὅλως ὂν τῆς τοιαύτης ἀγαθῆς ὀρέξεως παρῃρημένον; Καὶ εἰ τὰ ὄντα πάντα ἐκ τἀγαθοῦ καὶ τἀγαθὸν ἐπέκεινα τῶν ὄντων, ἔστι μὲν ἐν τἀγαθῷ καὶ τὸ μὴ ὂν ὄν, τὸ δὲ κακὸν οὔτε ὄν ἐστιν, εἰ δὲ μὴ οὐ πάντη κακόν, οὔτε μὴ ὄν, οὐδὲν γὰρ ἔσται τὸ καθόλου μὴ ὄν, εἰ μὴ ἐν τἀγαθῷ κατὰ τὸ ὑπερούσιον λέγοιτο. Τὸ μὲν οὖν ἀγαθὸν ἔσται καὶ τοῦ ἁπλῶς ὄντος καὶ τοῦ μὴ ὄντος πολλῷ πρότερον ὑπεριδρυμένον. Τὸ δὲ κακὸν οὔτε ἐν τοῖς οὖσιν οὔτε ἐν τοῖς μὴ οὖσιν, ἀλλὰ καὶ αὐτοῦ τοῦ μὴ ὄντος μᾶλλον ἀλλότριον ἀπέχον τἀγαθοῦ καὶ ἀνουσιώτερον.
ChatGPTによる日本語変換
「したがって、これらのことについては、次のような言葉があるでしょう。私たちは彼を、事実の真理を見つめることに導く価値があると思います。そして、まず最初に、率直に言います。『善から悪は生まれない。そして、善から生まれる場合でも、それは悪ではありません。なぜなら、火は冷やすことも、善からは悪を生み出しません。』また、すべての存在は善から生まれ、善によって保たれ、悪からは破壊されますが、悪の本質には何も含まれていません。また、悪そのものも存在しないでしょう。なぜなら、もしそれが自体で悪であるとしたら、それは何もないか、あるいは非常に不完全なものとなるでしょう。」
熊田先生訳では「明言しておこう」
4.19節の大意は、善から悪はうまれないこと。善は神を意味しているように。これも悪、心の奥底に働きかけ欲望を持たせ破滅へと導く悪は善から生まれないということで、善の完全性を示していると考えられます。善は,神の属性でしょうから、やはり神への信頼を表していると考えます。
この4.19節から4.20節にかけて善・悪論が続きます。
次が厄介です。
4.20 後半 同書 pp191、 200節
Νῦν δὲ τοῦτο ἔστι τῆς τοῦ ἀγαθοῦ δυνάμεως «τὸ ὑπερβάλλον μέγεθος», ὅτι καὶ τὰ ἐστερημένα καὶ τὴν ἑαυτοῦ στέρησιν δυναμοῖ κατὰ τὸ ὅλως αὐτοῦ μετέχειν.
Καὶ εἰ χρὴ παῤῥησιασάμενον εἰπεῖν τἀληθῆ· Καὶ τὰ μαχόμενα αὐτῷ τῇ αὐτοῦ δυνάμει καὶ ἔστι καὶ μάχεσθαι δύναται.
ChatGPT変換
p191 200節
「しかし、今、善の力のこれが「超越的な偉大さ」であり、それは貧しいものさえも自己の不足と一緒に完全に共有することができることを示しています。
そして、真実を大胆に言う必要があるなら、そして、彼自身の力で戦うものもまた、存在し、戦うことができる。」
熊田訳では「率直に真実を語るべきであるならば」
パレーシアする内容に彼と出てくるがこれは 善と置き換えて良さそうである。するとパレーシアすることは「善自身の力で戦うものもまた、存在し、戦うことができる。」
熊田先生の訳では「善に対して闘うものも、善の力によって存在し、かつ善に抗うことができるのである」
意味がとりにくいが少し下ったところ(202節)に具体例が述べられ本意がわかる(ような気がする)。
Oἷον ὁ ἀκόλαστος, εἰ καὶ ἐστέρηται τἀγαθοῦ κατὰ τὴν ἄλογον ἐπιθυμίαν, ἐν τούτῳ μὲν οὔτε ἔστιν οὔτε ὄντων ἐπιθυμεῖ, μετέχει δὲ ὅμως τἀγαθοῦ κατ’ αὐτὸ τὸ τῆς ἑνώσεως καὶ φιλίας ἀμυδρὸν ἀπήχημα.
「例えば、不道徳な人が、合理的でない欲望によって善を奪われている場合でも、その人はその欲望自体には関心を持たず、しかし友情や連帯の形で善を共有し、それを静かに感じます。」
Καὶ ὁ θυμὸς μετέχει τἀγαθοῦ κατ’ αὐτὸ τὸ κινεῖσθαι καὶ ἐφίεσθαι τὰ δοκοῦντα κακὰ πρὸς τὸ δοκοῦν καλὸν ἀνορθοῦν καὶ ἐπιστρέφειν. Καὶ αὐτὸς ὁ τῆς χειρίστης ζωῆς ἐφιέμενος ὡς ὅλως ζωῆς ἐφιέμενος καὶ τῆς ἀρίστης αὐτῷ δοκούσης κατ’ αὐτὸ τὸ ἐφίεσθαι καὶ ζωῆς ἐφίεσθαι καὶ πρὸς ἀρίστην ζωὴν ἀποσκοπεῖν μετέχει τἀγαθοῦ.
「そして、怒りはその自己の動きと善への傾向によって、悪と見なされるものから善と見なされるものに修正し、向かうことによって、善に参加します。最も悪い生活を送る人でさえ、生活全般に向かうように傾いたり、最高の生活を目指すような場合には、その傾向と生活への努力によって、善に参加しているのです。」
Καὶ εἰ πάντη τἀγαθὸν ἀνέλῃς, οὔτε οὐσία ἔσται οὔτε ζωὴ οὔτε ἔφεσις οὔτε κίνησις οὔτε ἄλλο οὐδέν.
「そして、もしすべての善を取り去ったとしても、実体も生命も解放も動きも他の何ものも存在しなくなります。」
Oὐκ ἄρα ὂν τὸ κακόν.
「したがって、悪は存在しない」
してみると、この機械置換では悪と明示していませんが、善を奪われ悪に傾いた自己でも善にあずかっていく再生の道があり、善を取り去れば存在しない=死とのこと、悪と善の混合を考え、悪を否定して最後に「したがって、悪は存在しない」と結論しています(ような気がする)。
ではパレーシアはどこまでかかるのか、最後の「悪は存在しない」までなのか、直近の「自己の力に戦わせ、自己の力によって戦うことができるのです。」なのか。
4.20の大意は悪が存在したとしても、善と悪が部分的に同居している状態を考え、悪は何もしないので悪を含むものが行動したり戦ったりするのは同居している善。悪の割合が大きくなっていくとその能力はゼロになる。したがって悪は存在できない、という意味かどうか。難しいです。
最後にわかったところだけでまとめると、全ては善に帰属するという、つまり神の信頼を「超越的に偉大」に信じるという意味であると結論できます。このことはパレーシアに一点の曇りもなく「神の信頼」を寄せるポジティブな極であるので、フーコーの仮説ーパレーシアは神秘主義の起源の一つーに閃光がともされたと考えられます。
偽ディオニシオスはプロティヌス、とりわけプロクロスの影響を強く、というか丸写しのところもあるらしいので、そちらを調べても良いのですが、ロマネスクを出口としたいのではじめにエリウゲナのラテン語へのパレーシアの翻訳を検討したい。
最後に、ロマネスクの神秘主義との関わりについて:1981年ごろM. F. Hearnら(Romanesque Sculpture: The Revival of Monumental Stone Sculpture in the Eleventh and Twelfth Centuries)によってロマネスク芸術に偽ディオニシウスの神秘主義的な影響、特にテオファニーについて議論されている。
以前書いたように、この文書群は使徒的生活のなかで執筆された文書と嘘が罷り通ってしまったので聖書の次に重要な文書と目される時代もあったそうである。それらの文書はエリウゲナによって訳されクリュニーに収められ、広く読まれロマネスク芸術についても大きな影響を与えたという。サンドニのシュジェール(スゲリウス)が自らのサン・ドニに箔をつけるために偽ディオニシオスをも聖ドニに同一視しようと意図的な虚偽の主張をした。これはアベラールに以前論破されたにも関わらずに。これらの神秘主義はロマネスク彫刻を攻撃した聖ベルナール、「偉大なる」シトー派の創設者、にも大きな影響を与えている。テオファニーとは神がなんらかの形で現れ、神と交流することを意味しているようです。
特に教会正面のモニュメンタルな彫刻において、神の顕現、降臨によるテオファニーを表しながら、なお、言葉では言い表されない何かを表現するよう芸術家たちに依頼したのかもしれません。
このように神秘主義と美術への展開の分析においてもフーコーの開拓したパレーシアは興味深い。次回はこの偽ディオニシオスのエリウゲナの翻訳したパレーシアについて検討してみましょう。
Life is mystery.
エックハルトの思想形成と偽ディオニシオス・アレオパギテースの『神秘神学』 ──《魂における神の誕生》の思想と《闇》の神秘思想の邂逅── 阿部善彦、第55号 2013年(平成25年)