真理を語る=パレーシアと告白
真理を語る、率直に語るは古代ギリシア語ではパレーシアという、ということを,フーコーが最晩年の講義で述べている。
ところがややこしいことに、その数年前にエクソモロゲーシスやエクサゴレウシスという言葉で原始キリスト教の修道院で自己の真理を語る=告白、を表してきたとしていた。
では両者の関係は?
パレーシアはエクサゴレウシスに吸収された、という本もあるし、両者の違いを解説して終わりの本もある。残念ながら、フーコーはそれを明示的に語る前に亡くなってしまった。なぜか、思考集成にはパレーシアについてまとまって論じたものはないらしい、という証言を読んだことがある。フーコーコレクションには1箇所だけパレーシアを見つけたが、この話題に触れていない。
私はこの両者は全く異なるものと捉えたい。
エクソモロゲーシスやエクサゴレウシスは服従に紐づけられているのに対し、パレーシアはフーコーは苦心してキュニコスの伝統に結びつけようとしている。キュニコス派は戦闘的な生、人と異なった別の生、反プラトン主義につながる生き方である。
この二つに交差はあっても合流はあり得ない。
デカルト以降の哲学が神学から分かれてきたのはパレーシアであるとフーコーはしている。それは従属とは反対の動きである。
ということで文献追加してまとめようかと思っています。この土日からずっと考えていて、、、どうでもいいか。
関連
過去にパレーシアについてまとめたものを下記に示します。