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「ロマネスク世界論」 池上俊一先生による修道院の説明

 池上俊一先生の「ロマネスク世界論」名古屋大学出版会1999年 は当時すぐ買って読んだと思うが改めて現在アベラールとエロイーズのレポートを作成しつつ読むと、こちらの理解も深まり先生の本も素晴らしい内容を持っていることがわかった。
 アベラールとエロイーズ、偽ディオニシウス、カッシアヌス、ベルナール、ベネディクト修道院規則などとの対応を少しメモしておこう。後の便利さのためである。ベルナールが修道院長がなんでも命令できるわけではなく戒律の範囲内といったことがわかったのは収穫。おそらくそれを超えた命令が横行していたのだろう。


第一章 方法の問題

p24 霊性の定式 <霊性>とは意識による宥和・知的加工の手のとどかない無意識の最深部のイメージを<感情>が直観したもの。
p30-37 過去の研究へのリマークとリフレクションがあるが、先生のこの著作はそのテーブルに載るべく英訳されたり、海外研究者に引用されたのだろうか?

第二章 プレ=ロマネスク

p45 「7世紀のメロヴィング朝においても、古代ローマ文化と教育伝統は司教座附属学校において継続しており、・・・」(興味深いしてきであるがなぜか参考文献がなく追跡したいのに追跡できない)
p46 中世におけるラテン語について
p47 「<キリスト教の霊性>」について 
p48  大教皇グレゴリウスの著作について、「司牧者としての司祭が、鋭い嗅覚をもって信徒たちのこころのうちに隠れた不徳や罪禍を探り当てねばならないとされ、その権能が権力行使の根幹となったのである。」と言い切られている。フーコー以前にそのようなことを言っている人がいたら知りたいので参考文献が欲しい。
p50 <ケルトの夢想><ゲルマンの習俗>
p54 「ローマ時代と同様な人体に基準をおいた可塑的・造形的で具象的な秩序だった彫刻の再来」後代で検討ととのことだがこの前提は合っているのだろうか?ロマネスク期の彫刻は枠に押し込められたりゴシックではやたらと引き伸ばされる。
p58 修道院について議論が始まる
p59 ベネディクトゥス戒律について「後代」の「法灯」と。
p62 「アストロラーべ」は「天体観測儀」もちろん私のハンドルネームのアストロラブはこの意である。またアベラールの子供の名前である。多分男。
p64 「紀元千年前後には精神的飛躍があったと看做し、その飛躍がロマネスク世界を生み出したと想定」「以下の議論は、この主張を心的世界の歴史学の立場から、逞しく裏付けるもの」

第四章 思考(2)

pp173 「聖書解釈は3世紀のオリゲネス」「カッシアヌス」「大教皇グレゴリウス」「ベーダなどを介して中世に伝えられた」
p182 「アベラルドゥス(アベラール)も弁証法を駆使した唯名論者である。」「唯一の神のみが創造原理だとし、そして位格とは、自然の中で数と実体に従って同一であるが、「特性」propriumにおいて異なっていて、同一実体の中に位格的区別があるのだとする。」とまとめているのであるが参考文献77(Buytaert, E. M.,  Abelard's Trinitarian Doctrine, in Peter Abelard, Louvain/La Haye, pp127-152 1974 下記リンク参照 なんと英語)の孫引きであろうか。この論文のpp128あたりが先生の根拠か。残念ながらアベラール自身の原典への参照がない。

pp185 「ロマネスク期のさまざまな三位一体説の主たる共通性は「像」(imago), 「類似」(similitudo)を用いた思考、像に内在する価値と意味の重要性の認識」「1140-41年のアベラルドゥスの三位一体説を批判したサンス公会議」・・・「共有されていた。」アベラールにも共有されていたということ?断罪した側に共有されていてアベラールは例外?

第6章 感情

pp262 「聖ベルナール」の「忘我の愛」とそれとは別概念のサン=ヴィクトルのフーゴーの「自然の愛」は「偽ディオニシウスや新プラトン主義」の主張でトマス・アクィナスで完成。偽ディオニシオスについては原典の参照文献なし。


第七章 霊性

pp279 クリュニーについて「<清貧><貞潔><服従>という三つの誓いを立て、禁欲・苦行を厳しく自らに貸すことによって、人類が罪に落ちる以前の、原初的な純潔をとり戻し、完徳および救霊をめざした」(参考文献4件あり)
pp280 「キリスト教の始原への回帰」が「原動力」。「世俗を厭離」して「聖書の教え」に戻り、「キリスト自身をモデル」
同 ベネディクトゥスの戒律で「共有財産」。個人財産は放棄したが「共有」され修道院の「富裕化」。
pp281 <服従>の解説 「美徳の母」、<清貧>以上に「大切」
同 ベネディクトゥスの戒律の服従について第五章を紹介。それに対し、ベルナールが戒律に従いその範囲で命令できると指摘しているとのこと。(Bernardus Claraevallensis, De Praecepto(…)10-12, cols. 874-878 下記リンク)

ファイルを開き下記を確認 CAPUT IV. Quid praelatis circa dispensationem Regulae liceat.  の下の下記で始まる段落 10. Lego profecto in Regula: «Haec consideratio penes abbatem sit;» (末尾の【参考情報】参照)
この情報は非常に面白い!
これを知ったらアベラールはどのように自己の放棄から服従について話を展開するだろうか?以前書いたようにアベラールは下記のように展開している:

私たちは自分の判断に従うのではなく、私たちの指導者の指示に従い、キリストの代わりに私たちに立っている人に、完全にキリストのために従属します。なぜなら、イエス自身がこのように言っています:『あなたがたを聴く者は、私を聴く者であり、あなたがたを拒む者は、私を拒む者である。』ルカ伝10:16

https://note.com/astrolabe_jp/n/n63b350834a8b?magazine_key=mbeb02ffcb518

また、ベルナールの主張は、組織内で不当に仕事を押し付けられた時にジョブ型の欧米の労働環境では「それは私の仕事ではないので」と言える発想につながっているのではないでしょうか。
 下記参考文献末尾に「たとえば、「殺してはならない」などが該当します。これらは決して不正であるかまたは悪いわけではなく、ただし人間の裁量による特別な許可がある場合を除きます。」という文章がある。私たちは知っている:どんな宗教の国家であろうとも戦争では人を殺してもよく、逆にその命に従わないとこちらが国家により処分される。そして、それは現在進行形で行われているのである。
pp284 「死者聖務」は「死者の魂をめぐる神と悪の力との壮大な戦い」で「全身全霊」で支援する「戦闘的性格」。「騎士身分」であったからとしている。フーコーだったらキュニコス派の側面を強調しそう。
同 「永遠の沈黙」お喋りは厳禁。「観想の中でキリストの神秘に自ら与ろうと試みた」戒律レベルでも沈黙について書かれていることなどは書かれていない。
pp286 シトー会について
同 グレゴリウス改革について
pp288 アウグスティヌス会則について この会則は一旦埋もれていて「再登場」したものだということ。またさまざまな「会則の寄せ集め」とのこと。
pp291 「このロマネスク期は、ヨーロッパ・キリスト教の霊性の師父たちが、他のいずれの時代よりもふくよかで瑞々しい感性をもって著作を著し、また弟子たちに教えを授けた時代」とのロマネスク愛に満ちた表現であるが、私は沈黙・指導・告白による統治方法の確立が行われた時代と感じる。ここは著者によって何を表現、大事なこととするかということだと感じる。告白や指導に関する説明はないようである。

pp293 「修道院および聖堂参事会員の霊的経験」の「起源」は「5世紀前半のカシアヌス(カッシアヌス)にあり」「聖ベルナルドゥスと弟子たちが大量に用い始めた」ベルナルドゥスがカッシアヌスを引用していたら興味深い。探してみたい。
pp296 「善悪の戦いの構図は」「カシアヌスにより5世紀にヘレニズム世界より西欧に導入され、7世紀に大教皇グレゴリウスによって教理に組み込まれ、ついで贖罪規定書を介して普及した7大罪の観念は、やがてカトリシズムの主要部分となって近代初頭まで命脈を保つが、何にも増して重い罪だとされたかの判断は、時代により変遷していく。」この見方について参照文献はついていない。フーコーの性の歴史1巻あるいはコレージュ・ド・フランスの講義の内容で、歴史学者は嫌う味方ではないか。フーコーの感覚は杜撰だと。公知としていいのだろうか?また、先ほどの「いずれの時代よりもふくよかで瑞々しい感性」と方向性は逆な気もする。実はフーコーはキリスト教の告発をしたと言われているからである。フーコー自身はそれについて一切言わなかったようである。

第八章 想像

pp352 「天使」への関心が高まったのは偽ディオニシウスの「著作の復興のゆえ」天井位階論でしょうか
pp355 ベルナルドゥスは天使論を偽ディオニシオスよりもオリゲネスの影響を受けて書いた、とのこと。日本だったら宇治平等院にいる菩薩や天女たちでしょうか。
 ベルナールの文献は下記リンク参照 
BERNARDUS CLARAEVALLENSIS ABBAS SERMONES IN CANTICA CANTICORUM 5, 19, 54, cols. 798-803, 863-867, 1038-1044参照とのこと(池上先生による)


pp365 アベラールの女性賛美。女性賛美はアベラールとエロイーズにあるがそれ以外にあるのか、原典への参照がないのが残念。
 この女性賛美説は「孤立」しており「後続の神学者に引き継がれることはなかった」とのこと。これは知りたかった情報。アベラールのあの女性賛美の系譜を調べたかったのでこれである意味調べようがないことが確定。先生は参考文献として下記を挙げている「男女の逆転的把握」:Ferrante(J. M.) 1975, Woman as Image in Mediaval Literature, from the Twelfth Century to Dante, New York/London
表紙と目次:

まとめ

以上、池上先生の本をチェックさせていただいた。理系の私としては池上先生がこの分野の論文をフランス語や英語で発表して海外の論文誌に載っているのか気になる。理系の我々はアカデミックには評価される業績は英語論文だけなので。それに海外の研究している以上先方の学者に読まれて引用されなければ研究自体もったいない。
 アベラールについては総説論文の孫引きかもしれない。しかも英語文献2件。ラテン語文献への参照がない。扱いが低く感じる。偽ディオニシウスについても同様。一方、ベルナールについてはラテン語原典への参照があり見つけることができた。ページ数もきちんと書かれているのでベルナール愛を感じる。あるいは神秘思想ファンか。
 ベルナールの命令についての議論が職務範囲についての組織論とも繋がるかもしれない。
 指導・告白については紹介されていない。司牧と贖罪規定書の権力の関係のフーコーの本の内容は引用なしで述べられている、阿部謹也先生はフーコーを引用していたので1999年では引用が必要なのでは。
 シトー会は紹介されていた。これは先生のベルナールびいきだからだろう。フランチェスコ会やドミニク会については紹介されていないようである。アガンベンも引用に見えていない。フーコーもウンベルト・エーコについてもそれぞれ参考文献一件。

【参考情報】ベルナールの、命令は戒律内のみという出典箇所

Bernardus Claraevallensis, De Praecepto
10. Lego profecto in Regula: «Haec consideratio penes abbatem sit;» et hoc vel illud esse in providentia, vel arbitrio, seu dispositione abbatis (S. Benedicti Reg. cap. 3). Ut autem pro sua voluntate aliquid mutet, me ibi legisse non recolo: quinimo, «In omnibus,» inquit, «omnes magistram sequantur Regulam, nec ab ea temere devietur a quoquam.» Ergo nec ab ipso abbate. «Omnes,» inquit, «magistram sequantur Regulam.» Nemo ergo suam voluntatem: ubi sane nec abbatem excipi puto. Videtis quantum necessitati tribuitur, subtrahitur voluntati? Quid etiam? Nonne regularis ipsa professio, qua se 0866C junior subdit sponte Priori, aeque alligat et Priorem ? Communis equidem pacti pari reor utrumque necessitate teneri, fierique duos per unius sponsionem ad alterutrum debitores: fidelis curae unum, alterum humilis obedientiae. Quidnam igitur jam voluntati relinquitur, ubi et praelatus debiti necessitate tenetur? Sed et de hoc item non parum praelati praescribitur voluntati, quod is qui profitetur, spondet quidem obedientiam, non tamen omnimodam, sed determinate secundum Regulam; nec aliam, quam sancti Benedicti: ut oporteat eum qui praeest, non frena suae laxare voluntati super subditos, sed praefixam ex Regula sibi scire mensuram; et sic sua demum imperia moderari circa id solum, quod rectum esse constiterit; nec quodlibet rectum, sed hoc 0866D tantum quod praedictus Pater instituit, aut certe quod sit secundum quod instituit. Sic se quippe habet professio: «Promitto,» non quidem Regulam, sed, «obedientiam secundum Regulam sancti Benedicti. 0867A «Non ergo secundum voluntatem praepositi. Proinde si professo secundum illam Regulam abbas meus mihi aliud forte imponere tentaverit quod non sit secundum Regulam, aut etiam quod non sit secundum ista instituta, verbi causa, Basilii, Augustini, Pachomii: quaenam mihi, quaeso, in hac re necessitas imminet obsequendi? Solum quippe id a me posse exigi arbitror, quod promisi.

レギュラ(戒律)に確かに従います。「Haec consideratio penes abbatem sit;」 そしてこれはアバット(修道院長)の検討、裁量、または配慮の中にあるべきです(聖ベネディクトの規則、第3章)。しかし、彼が自分の意志に従って何かを変えることについては、私はそこで読んだことを思い出せません。むしろ、「すべてのことにおいて」、彼は言います、「すべての修道士はレギュラに従わなければならず、だれもがそれから乱れてはならない。」ですから、アバットも例外ではありません。「すべて」、彼は言います、「修道士はレギュラに従わなければならない。」したがって、アバット自身も例外ではありません。「誰も」、と彼は言います、「レギュラに従わなければならない。」従って、自分の意志はありません。確かに、アバットでさえ除外されないでしょう。彼は見ての通り、どれだけ必要性が与えられ、自由が奪われるかを見てくださいか?さらに何でしょうか?規則的な誓い自体は、若い修道士が自発的にPrioiriに服従することによって、同じくPriorにも拘束されます。私には、おそらく両方が同じ契約の必要性によって拘束され、一人がもう一人に対してその契約により債務を負うことになる、という共通の合意があると思います:1人は忠実なケアのため、もう1人は謙虚な従順のため。ですから、上司が義務的に拘束されているとき、もう意志に残されているものは何でしょうか?しかし、同様に上司に対しても彼の意志に相当するものは少なくありません。それは、誓願者が服従を誓うとき、完全な服従ではなく、規則に基づいた明確な服従を誓います。他のどんなものでもなく、聖ベネディクトが指定したものです。従って、指導者が自分の権力を従属者に対して緩めず、規則から自分に課せられた基準を知って、最終的にはただそれだけをもって指揮を調整し、確かに正しいと認識されていることだけを行います。そして、どんな正しさでもなく、予測された父が設定したこと、あるいは確かに彼が設定したことにのみ関係します。従って、誓願者はこう言います。「私は誓います」と、レギュラではなく、「レギュラに従った服従を」。ですから、「したがって、上司の意志に従っていないなら、もしアバットが私に対してレギュラに従わない他の何かを課そうとしたり、あるいはバシリウス、アウグスティヌス、パコモの規則とは異なる何かを課そうとしたりした場合、私はどのようにして服従する必要があるでしょうか?私には、この件で服従しなければならない必要性があるとは考えられません。確かに私に課せられることは、私が誓ったことだけだと思います。
CAPUT V. Legem obedientiae non esse extendendam a praelatis ultra limites professionis, neque citra contrahendam.


11. Videtis ergo jam obedientiae limites, quos requiritis. Si modus est obeditionis tenor professionis? nec se valeat extendere potestas imperantis, nisi quatenus attigerit votum profitentis: profecto circa, 0867B et ultra, nec non etiam contra, quid aliud quam obedientiae limites quosdam censuerim, et his suis terminis virtutem eamdem circumcludi? Quamobrem quisque professus in quovis genere salutiferae vitae, nec ultra obedientiae lege cogendus, nec citra est inhibendus, quam sua ipsius videtur complecti professio. Quanto minus contra? Is ergo qui medius est vitae modus, praefixus voto, professione firmatus, tanquam lignum quod erat in medio paradisi, solus 505 sine dubio legi erit subjectus, obnoxius jussioni. Ergo praelati jussio vel prohibitio non praetereat terminos professionis. Nec ultra extendi potest, nec contrahi citra. Nil me praelatus prohibeat horum quae promisi, nec plus exigat quam promisi. 0867C Vota mea nec augeat sine mea voluntate, nec minuat sine certa necessitate. Necessitas quippe non habet legem, et ob hoc excusat dispensationem. Voluntas vero, quia sola meretur retributionem, etiam sola non immerito gradum altiorem usurpat. Alioquin et absque necessitate remissio voti, non dispensatio, sed praevaricatio est: et restrictio contra voluntatem, murmur est, non profectus. Ponant ergo praepositi metam obedientiae subjectorum ex votis labiorum ipsorum, non suorum desideriorum: monentes eos, non cogentes ad celsiora; condescendentes eis, cum necesse fuerit, ad remissiora; non cadentes cum eis.
第V章。服従の法は誓いの範囲を越えて広げても、またそれ未満に狭めてもならない。
ですから、既に求めている服従の範囲を見ていますね。服従の方法は誓いの内容でしょうか?支配者の権力は、誓いを立てた者の誓いに触れる範囲内でしか拡大されないことを示唆しています。確かに、その範囲内、およびそれを超えて、またそれに対抗することは、私が服従の範囲と見なすものであり、これらの境界によって同じ徳が囲まれています。ですから、どのような種類の健全な生活を選んだ者も、服従の法に過度に縛り付けてもならず、またその法を越えて抑制してもなりません。それは彼自身の誓いに見合う範囲内で行われるべきです。それを逆にすれば、中庸な生活を選んだ者で、誓いで確定し、誓願で確立された者は、まさに楽園の中央にあった木のように、疑いなく法に服従し、命じられたことに従います。したがって、上司の命令や禁止は誓いの範囲を超えてはなりません。それは広がることもできず、またそれ未満に狭まってもなりません。上司は私が約束したことを妨げるべきではなく、私が約束した以上のことを要求すべきではありません。私の誓いを私の意志なしに増やすべきではなく、確実な必要性がない限り、減らすべきではありません。なぜなら、必要性は法を持たないからであり、そのため免除を正当化します。しかし、意志は報いを受ける唯一の値であり、ただそれだけで正当により高い地位を要求します。そうでない場合、必要性のない誓いの解除は、免除ではなく違反です。また、意志に逆らった制約は不満であり、進歩ではありません。したがって、上司は被従属者の服従の目標を、自分たちの欲望ではなく、自分たちの唇の誓いに設定すべきです。彼らを教え導くものとして、彼らを強制するのではなく、必要があれば彼らに柔軟に対応し、彼らと一緒に傾倒しないようにすべきです。
CAPUT VI. Religiosum perfectionis cupidum non debere obedientiam intra certos professionis limites constringere.


0868A

12. Caeterum subjectus hujuscemodi obedientiam, quae voti finibus cohibetur, noverit imperfectam. Nam perfecta obedientia legem nescit, terminis non arctatur: neque contenta angustiis professionis, largiori voluntate fertur in latitudinem charitatis, et ad omne quod injungitur spontanea, vigore liberalis alacrisque animi, modum non considerans, in infinitam libertatem extenditur. Haec est illa de qua signanter apostolus Petrus: Castificantes, inquit, corda vestra in obedientia charitatis (I Petr. I, 22): pulchre ipsam per hoc sequestrans ab illa inerti et servili quodammodo obedientia, nec charitati prompta, 0868B sed obnoxia necessitati. Haec justi illius, cui lex posita non est (I Tim. I, 9), propria est: non quod vel ille perfectus vivere debeat sine lege, sed quia non sit sub lege; minime quippe contentus voto suae cujuscunque professionis, quam superat animi devotione. Quanquam nec ista Regula ipsa tacuerit, ubi monet, si fratri impossibilia injunguntur, «ut confidens de adjutorio Dei, obediat «ex charitate (Reg. S. Benedicti, cap. 68).» In eadem denique Regula tertius humilitatis describitur gradus, «ut omni obedientia monachus se subdat «majori!» (Ibid. cap. 7.) Dicens quippe «omni,» non vult nos in obediendo mensura esse contentos professionis, non attendere promissi debitum, non de pacto sumere modum; sed transire alacriter 0868C etiam votum, et obedire in omnibus. Est sane quidam obedientiae limes, secundum tempus, ipsa temporis extremitas, ut is sit terminus obedientiae, qui et vitae. Hunc nobis maxime Unigeniti Dei commendat exemplum, qui factus est Patri obediens usque ad mortem. Haec ergo quoties interrumpitur, inobedientia dicitur, et peccatum, et transgressio seu praevaricatio.
第VI章。宗教的な完全を望む者は、服従を誓いの特定の範囲内に縛り付けてはならない。
このような服従に従う者は、その範囲内に縛り付けられる服従が不完全であることを理解すべきです。完全な服従は法を知らず、範囲に縛られません。専念の狭さに満足することなく、彼はより広い意志で慈悲の幅広さに向かい、自発的に課せられたすべてに対して、自由で気前のよい精神の力で、方法を考慮せずに無限の自由に広がります。これは、使徒ペトロが明確に言及しているものです。「心を清めて、従順の愛の中に」(ペトロの第一の手紙、1:22)。これによって、無気力で奴隷的な服従から区別され、愛に敏感ではなく、むしろ必要に従属するものから切り離されます。これは「律法の下に置かれていない正しい人」(テモテへの第一の手紙、1:9)に特有のものです。彼が法の下で生きなければならないわけではなく、彼が法の下にないからです。彼は誓いのどんな職業よりも高潔な精神の奉仕において、その誓いに従うことを満足に思っていません。もちろん、聖ベネディクトの規則自体も、兄弟に不可能なことが命じられる場合、「神の助けを信じ、愛によって従え」と助言しています(聖ベネディクトの規則、第68章)。最後に、同じ規則では謙遜の第三の段階が描かれており、「すべての服従をもって僧は自分を上司に服従させなければならない」(同規則、第7章)と述べています。彼は「すべて」を言っていますが、私たちが服従の範囲に満足することなく、約束の義務を考慮せず、約束を採用せず、むしろ誓いを躊躇せず、すべてに服従しなければなりません。確かに、ある種の服従の範囲があり、時にはそれが時間の終わりそのもの、つまり服従の終わりであるかのようなものであるという事実があります。これは服従の境界であり、同時に時間の境界でもあります。この境界が破られると、服従違反、罪、違反または逸脱と見なされます。
10. CAPUT VII. Obedientiae gradus, et inobedientiae gravitas quomodo noscenda, juxta distinctiones praemissas.
13. Sed interest sane qua causa, quo affectu, qua 0869A intentione, quo praecipiente, in quove praecepto malum hoc committatur. Et quidem nullam prorsus inobedientiam dico parvi ducendam, non tamen omnem pari aestimandam periculo. Enimvero mandatum Dei est: Non occides (Exod. XX, 13). Fac ergo duos homicidas, et unum quidem spoliandi cupiditate, alterum vero necessitate sese defendendi facinus perpetrasse. An non hic satis evidenter inter lepram et lepram causa separat, faciens utique disparem valde culpam unius ejusdemque transgressionis? Quid vero si hunc subita ira, illum studiosa malitia, aut vetus odium forte ad idem scelus impulerit? numquidnam simili pensandum erit judicio, quod tam dissimili factum 506 constabit affectu? Nil deinde incestius obsceniusve, quam 0869B illas filias Lot paternum usurpasse concubitum (Gen. XIX, 32-36): et tamen quis non videat, quantum evacuarit aut attenuaverit turpis nefandique reatum flagitii pietas intentionis, et intentio pietatis? Jam vero de illo qui praecipit, et item de eo quod praecipitur, hujuscemodi avertenda erit secundum rationem distinctio, ut cujus inter praeceptores reverentior nobis imminebit auctoritas, ejus gravior formidetur offensio, ac majoris cujusque mandati transgressio, damnabilior aestimetur. Melius siquidem est obedire Deo, quam hominibus; et in ipsis melius magistris, quam condiscipulis; porro in magistris, melius nostris, quam extraneis. Quibus autem melius constat obedire, ipsis procul dubio et non obedire detestabilius est.
0869C
第七章 従順の段階、および不従順の重大さの見極め方、先行の区別に基づいて

第13項 ただし、この不従順がなされる理由、感情、意図、命じる者、およびその命令によって、その原因は明らかになります。実際、私はまったく不従順を軽視することは言いませんが、危険を同じくするとは限りません。なぜなら神の戒めがあります。「殺してはならない」(出エジプト記XX、13)。ですから、強欲から一人、そして自己防衛からもう一人の殺人者を作り出すことは、異なる動機、意図、命じる者、および命令の中でこの悪行が行われる理由を考えなければなりません。確かに、私はまったく不従順を無視することはありませんが、すべての危険を同じくするものとは考えません。神の戒めは、「殺してはならない」(出エジプト記XX、13)です。ですから、強欲から一人、そして自己防衛からもう一人の殺人者を作り出すことは、異なる動機、意図、命じる者、および命令の中でこの悪行が行われる理由を考えなければなりません。確かに、私はまったく不従順を無視することはありませんが、すべての危険を同じくするものとは考えません。

したがって、これは明らかに同じ違反の非常に異なる罪を生じるようにし、同じ罪を犯した者の非常に異なる罰を生じるようにします。しかし、もし突然の怒りがこれを駆り立て、もしくは熱心な悪意、あるいは古い憎しみが同じ罪に導いた場合、同じ行為が非常に異なる感情に基づいてなされたとすれば、同じ裁きに値するのでしょうか?そして、何もこれほど不道徳で猥褻なことはないでしょう、ロトの娘たちが父親との関係を持ったこと(創世記XIX、32-36):それでも、誰もが悪事の不道徳で猥褻な罪をどれほど軽減または緩和したかを見るでしょうか、信仰の意図とその意図がもたらしたものを?そして、命じる者と命じられることについて、このような区別は理性に従って避けるべきです。つまり、誰の中で教師の権威が私たちにとってより尊重されているならば、その人の違反はより重いと見なされ、各戒めの違反がより非難されるべきです。確かに神に従うことは人間に従うことよりも良いです。そして、教師に従うことは同級生に従うことよりも良いです。また、教師に従うことは他の教師に従うことよりも良いです。従うべき者に従うことがより望ましいことは疑いようもありません。
14. Et de mandatis similiter. Majoribus quippe major, minoribus minor opera nostra et cura debetur: de quorum etiam contemptu, juxta eamdem considerationem, gravior leviorve offensa contrahitur. Porro majora minoraque mandata dixerim, secundum quod magis minusve velle constiterit ipsum qui praecipit, sive hominem, sive Deum. Est, verbi gratia, mandatum, Non furaberis (Exod. XX, 15); et est mandatum, Omni petenti te da (Luc. VI, 30). Utrumque quidem magnum, quoniam utrumque divinum: sed de non furando, majus. Quis enim nesciat aequissimo Deo non aeque displicere tenaces, atque fures; et quia de duobus malis plus velit nos tenere nostra, quam tollere aliena; et ita minus 0869D peccare qui non tribuit sua, quam qui non sua furatur?
15. Sed et in mandatis hominum rara aequalitas invenitur, cum, pro variis necessitatibus vel utilitatibus agendorum, injungentium affectio varietur; quodque putaverint rectius vel commodius, hoc amplius cupiant et exigant observari. Tam ergo qualitas praeceptorum, quam auctoritas praecipientium, et obedientiae praefigit metam, et inobedientiae terminat culpam: quando (ut dictum est) in praelatis quibusve gravioris auctoritatis, et eorum mandatis quibusque majoris utilitatis, quo diligentior debetur 0870A obsequendi cura, eo et culpa gravior incurritur de contemptu.
同様に戒めについても同じです。なぜなら、より大きな者にはより大きな、小さな者には小さな働きと心配が求められるからです。これらを軽視することは、同じ考慮に基づいて、より重いまたは軽い違反を引き起こします。また、大きな戒めと小さな戒めがあります。それは命じる者が望むことがより大きいか小さいかに応じて、人であろうと神であろうと、明らかになります。たとえば、「盗んではならない」(出エジプト記XX、15)という戒めがあり、「求める者には与えなさい」(ルカVI、30)という戒めがあります。どちらも大きな戒めですが、盗むならないという戒めがより大きいです。なぜなら、最も公正な神にとって、しがみつく者と盗む者が同じくらい不快であることを知らない者はいません。そして、二つの悪事の中で、私たちが他人のものを奪うことよりも、自分のものを守ることを望むことがより多いため、自分のものを与えない者の方が少なく罪を犯すのです。
また、人の戒めにおいても稀に均等性が見られます。異なる必要や行動の利益に基づいて、命じる者の感情が変わることがあります。そして、彼らが正しいか便利だと思ったことは、それをより多く守られることを望み、要求します。従って、戒めの性質や戒める者の権威は、従うことの目標を定め、不従順の過失を終わりにします。前述のように、大司教や同様に重要な権威を持つ者たちの場合、およびより大きな利益を持つ者たちの命令の場合、従うべき丁寧な注意が必要であり、その軽視からはより重い過失が生じます。
16. His itaque distinctionibus animadversis, et obedientiae modus, et pondus inobedientiae facile reperitur. His gradibus non solum inter diem et noctem, hoc est obedientiae bonum et inobedientiae malum, discernitur; sed etiam inter diem et diem; itemque inter noctem et noctem: inter bonum videlicet et melius, inter malum et pejus. Bonus quidem obedientiae gradus est, si juxta magistri nostri sententiam, propter metum gehennae, seu propter professionem sanctam, quam professus est, quispiam obedierit (S. Benedicti Reg. cap. 5): melior tamen cum ex Dei amore obeditur. Illa quippe obedientia necessitatis est, ista charitatis. 0870B Illum autem optimum dixerim obedientiae gradum, cum eo animo injunctum opus recipitur, quo et praecipitur. Cum enim ex voluntate jubentis pendet intentio exsequentis, fit ut nec majus minoribus, nec minus majoribus confuse (ut assolet) ad implendum quod injungitur, subjecti studium impendatur; sed moderante animo quaeque pro sua dignitate imperia, modum sciat utrobique servare, tam in observando videlicet jussa, quam in cavendo prohibita: non quod vel minimum horum quae jubentur, contemnendum putet, etsi tamen minimum quod minimum est, reputet; sed minimum ex comparatione majorum. Novit verus humilisque obediens et minima non contemnere, et maxime curare quae maxima sunt, intimo quodam devoti sincerique animi 0870C sapore discernens, quibus de mandatis ei qui praeest, suis quodammodo factis respondeat cum propheta: Tu mandasti mandata tua custodiri nimis (Psal. CXVIII, 4). Ubi, quia non dicit universaliter omnia, illa tantum oportet intelligi, 507 quae quoniam non sine grandi culpa quacunque occasione violantur, ideo non sine grandi poena quomodocunque violata donantur; ut puta, Non occides, et si qua hujusmodi sunt: quorum nunquam potest esse observatio injusta vel mala; nunquam bona licitave transgressio dispensatione duntaxat humana.
これらの区別に留意した上で、従順の方法と不従順の重みは容易に見つかります。これらの段階においては、ただ昼と夜、すなわち従順の善と不従順の悪だけでなく、昼と昼の間、また夜と夜の間でも区別されます。すなわち善とより良い、悪とより悪いの間にも区別があります。従順の善の段階は、たとえば、私たちの主の教えに従って、地獄の恐れや、彼が宣言した聖なる使命のために、誰かが従う場合です(セント・ベネディクトの規則第5章)。しかし、それよりもっと良いのは、神の愛から従う場合です。前者は必要に迫られた従順であり、後者は愛に基づくものです。最も優れた従順の段階は、仕事を与えられた目的と同じ意図でそれを受け入れる場合です。なぜなら、命じる者の意図が実行者の意向に依存するため、与えられた仕事を果たすためには、命じられたことが小さな者にとっても大きな者にとっても混乱なく実行されるように、従順な被従者が心を傾けなければならないからです。指導者は指示されたことを守り、禁止されたことを避けるために、命じたことと禁じたことの双方について、それぞれの品位に応じた方法を知っていなければなりません。これは、命じられたことの最小値が軽視されるべきではないという意味であり、最小のことが最小であると考えるべきだが、大きなことと比較しての最小のことであると理解するべきです。真の謙虚で従順な者は、最小のことを軽蔑せず、最大のことを重視し、指導者の命令に対して、深く奉仕の心をもって応じ、預言者の言葉で言うように、「あなたはあなたの戒めが極めて重要であると述べました」(詩篇CXVIII、4)と、実際に行動することで応えます。ここで、「全て」とは言っていないので、大きな罪になる可能性があるものだけを考えるべきであり、そのような違反が大きな罰を伴う可能性があるので、違反が許容されることはないと考えるべきです。たとえば、「殺してはならない」などが該当します。これらは決して不正であるかまたは悪いわけではなく、ただし人間の裁量による特別な許可がある場合を除きます。



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