上野千鶴子「女ぎらい」朝日文庫に現れるミシェル・フーコー
ジェンダーやセクシュアリティについての調査なら日本では上野千鶴子氏をみておかないといけないと思い、まずは図書館で取り寄せ。
興味深い分析が続く。さすがな分析だと思う。別文献かもしれないが、そのような社会が成立した原因、要因、歴史的なものへの言及はない、かあえて避けている。なぜそのようなことを思ったかというと:
フーコー「性の歴史」が頻繁に引用される。
例えば、第2章ホモソーシャル・ホモフォビア・ミソジニーにおいて、フーコーの性の歴史2巻 「快楽の活用」の後半のギリシアにおける少年愛が引用されるp31
第7章 春画のミソジニー においてフーコーの性の歴史 1巻 「知への意志」を上野先生は「むさぼる」ように読み「目の覚める思い」がしたそうだ。p128 「セクシュアリティ」は「自然」でもなく「本能」でもなく、「文化」と「歴史」の産物だったのか、と。1980年の頃だそうだ。それで春画の研究を始めたそうなのだが、それではその春画をそのように描くようにさせた江戸時代の思想(フーコーの知の考古学でいう名もなき声の分析にせよ)はなんだったんだろうか? 私はそれが知りたいのである。
15章権力のエロス化では同じく「性の歴史 1巻 知への意志」の性的欲望の装置が議論される。性的欲望の装置として上の先生は:
・子供の性の教育化
・女性身体のヒステリー化
・性的倒錯の精神病理学化
・生殖行為の社会管理化
を説明している。
ドゥルーズ・ガタリは第2章p34に引用されている。
ところでこの2時間ほどこの本を捲り続けているのだがボーヴォワールが出てこない。あるいは他の本かも。
見つけた。15章に明治ごろの「造化機論」が紹介され、「夫婦間性愛を最上等とみなす言説」が繰り返されているという。新編娯苦楽世界独案内」には「快楽の極点」として「実に人生の快楽は夫婦間の情好にぞある」とある。ところが、当時は「「恋の相手」を「遊女さま」、妻や母にする女を「地女」と呼んできた江戸時代の日本を考えれば、性的快楽のパートナーが夫であり妻であるという考え方は、新規なイデオロギー」と述べてあり文献の紹介とともに興味深い。これらの文献は活字化されてもおらず古文書扱いのようであるが、赤川先生が下記のように取り上げている:
本も日本の古本屋で売られているようだ。
そして、江戸期のそのようなセクシュアリティはどのように成立したのか、養生論のようなものがあったのか、さらにその前の時代はどうであっただろうか?
このように考えていくととても平安時代の性愛を今のようにみてはいけないだろう。女系社会もありだった当時、まひろが「不義」の子という必要もなく、男系社会に移行しつつあった天皇家のイデオロギーでは不義かもしれないが、ドラマでも説明があったよように道長の嫁の一人倫子とも財布は別々。同じように考えれば、まひろも別財布でやっているのだから元々別れたいのにくっついてくる宣孝に忍耐強いなどと持て囃すのはどうかと思う。
忍耐強い宣孝、というより左大臣にどれだけ取り入れられかというのが元々の彼の本性で、源氏物語の性愛の政治性を分析した中村真一郎の本を参照してほしい。また、源氏物語は光源氏が死んだ後にどのように相続されたか宇治十帖に入る前に露骨なまでに書かれているので、その前提で宇治十帖を読むことができる。また、源氏も六条の御息所にまとわりついてあの土地をちゃっかりいただいたのはそれをわかっていたからであろうし、源氏は偉くなった後に仕事したくなくて大臣に丸投げしていることも書かれていると、今のドラマの道長が日本の政治を世直しするために娘を入内しというのもストーリーが収束するのか不思議である。倉本氏は著作の中で権力闘争として描いていたのでストーリーにどこまで協力的か楽しんでいるだけか見解が聞きたい。別にフィクションとして楽しんだって構わない、表向きの文書と整合性が取れればと私も思う。
ところで玉鬘を誰に投影するか楽しみなんだが。さやかと思ったんだけどすぐなくなってしまったし。どうでしょうか?
この記事は下記の記事のシリーズの続き。でもまだ焦点が定まってません。
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