脳みその機能が一つか二つ、欠乏し、それだけで現代社会で生きるためのノウハウが永遠に、致命的に失われてしまったように感じる。ぼんやりとした靄が吹き溜まり、その靄の中に手を突っ込んで何かを――いままでは問題なく見えていたはずの何かを――探そうとしてみるけれど、結局のところ自分でもそれが何かわからない以上徒労に終わるオチになる。機能を終えてしまったんだ、と僕は悟る。もう動かなくなってしまった古代文明のからくり人形みたいに。まるでポール・オースターの『オラクルナイト』みたいだと思う。
僕はこの文章が好きだ。体調が悪くなったとき、いつも思い浮かべるのがこの文章だ。医者も匙を投げていた病状から回復した主人公が、短い散歩から社会復帰を始める冒頭のシーン。僕は主人公の目を通し、改めて世界の異常性を確認する。機能不全となった肉体から見る他者の動き、時間の流れ。人々が絶えず社会のために行動し、身を粉にして働く姿。いったいどうしてこんなことができていたんだろう? と主人公は疑問に思う。そして、自分にはもうそんなゲームに興じる体力はない、と。僕だってそうだ。いったん物事を俯瞰してみてしまえば――自分がその土俵から離れてしまえば、絶対にこんなことはもうできないと思ってしまう。本当に何でそんなことができていたんだろう……。欠陥品となった僕はただ忙しなく回っていく世界を傍観する。
欠陥品。
世の中という機能から外れてしまった部品であることを自覚しながら、いったい全体どうして自分は社会にしがみついたままでいるのだろうと思う。というより、僕は手を離しているし降参の意志すら示しているのだけれど、命綱のように腰にロープが繋ぎ止められているせいで離れられないという方が近い。僕はずるずると引き上げられ、社会の隅っこの方で益のない仕事に興じる。――いや、違う。結局のところ気の持ちようなんだ。やめたければやめればいいし、結局のところそれは自分で選択しているにすぎないことじゃないか。でも、ダメなんだ。僕は僕のままでずるずると自分の存在を引っ張ってしまう。影――習慣で象られた自分の影が、僕を地上へと引っ張り上げていくのだ。
暗い話ばかりだ。
自分と向き合うと暗い話しか出てこない。あるいは僕がそれを望んでいるだけなのかはわからない。そういう底辺話みたいなのを望んでいるだけなのかもしれない。人の声は遠くなり、自分の浅ましい心だけが真実になり、すべてのことの興味を失っていく。結局のところそれが欠陥品と言うことなのかもしれない。人は希望がなければ生きていけないのだから。