日本史 Rock Shaw 承久の乱の和歌
今日は無事に東京千秋楽を迎えることができたようでまことにめでたい。コロナ禍での興行は本当に大変だと思うが、素晴らしい舞台で楽しませていただいた。大阪公演も最後まで無事に行われますように!
さて、この舞台では多くの和歌が読み上げられた。定番な歌もマニアックなのもあったが、なんの説明もなく読み上げられてみんなついて来れるのだろうか?とそわそわしてしまった。
ということで、拙いながら簡単にまとめてみた。
いまぞ知る御裳裾川の流れには浪の底にも都ありとは(二位尼)
これは有名か。
壇ノ浦の戦いで平家が敗れ、安徳天皇とともに入水した二位尼(平清盛の妻、安徳天皇の祖母)が詠んだ歌とされる。
「御裳裾(みもすそ)川」は通常伊勢の神宮を流れる川を言うが、皇統を暗示しているものと思われる。また、下関にも御裳裾川があり現在は公園となっている(上の写真)。
くだりはつる世の行く末はならひ也のぼらばみねに月もすみなむ(慈円)
承久二年(1220)九月十三日、藤原定家が慈円に十首を奉った。その返事十首のうちの一首。承久の乱の前年である。
その年の春、藤原定家は内裏歌会にて「道のべの野原の柳下もえぬあはれなげきのけぶりくらべに」と詠んで後鳥羽院の勅勘を被った。
そんな時期なので定家は慈円に悲観的な和歌を送ったのだ。それに対して慰め励ます歌を慈円は返した。
一首は『愚管抄』を著した慈円の世界観が窺われるとされる。
吉野山峰の白雪踏み分けて入りにし人のあとぞ恋しき(静御前)
これも有名か。源義経の愛妾静御前の詠。義経は頼朝によって追われる身となり吉野山に逃げる。その義経が恋しいというこの歌を、源頼朝の前で舞いながら歌った。
「あと」は「雪」の縁語。
春はただ軒端の花をながめつついづち忘るる雲の上かな(後鳥羽院)
後鳥羽院二十歳。
正治二年(1200)二度目の百首のうち「禁中」題での御製。四句は「行くべき方角がどちらか忘れる」の意。「雲の上」は宮中を意味する。
大海の磯もとどろによする波われてくだけて裂けて散るかも(源実朝)
実朝の代表作の中のひとつとも言うべき一首。
上句は「伊勢の海の磯もとどろに寄する波畏き人に恋ひわたるかも(万葉集・巻四・笠女郎)」
四句は「聞きしより物を思へば我が胸は破れて砕けて利心もなし(万葉集・巻十二)」より。
勅撰集には採られていない。
見わたせば松もまばらになりにけり遠山桜咲きにけらしも(土御門院)
百首中、花の歌の御製。桜が咲いて松がまばらに見えるという。私はこのような歌が好きだ。
『続後撰和歌集』所収。
秋の色をおくりむかへて雲の上になれにし月も物忘れすな(土御門院)
この御製も『続後撰和歌集』所収。雑歌下の巻頭を飾り、室町時代の歴史書『増鏡』にもひかれた。「雲の上」は宮中を意味する。
建保四年(1216)三月土御門院百首の中の懐旧の心を。僅か十六歳で弟の順徳院への譲位を余儀なくされた六年前を思い、孤独を噛みしめながら月に呼びかけた述懐歌とのこと。
『増鏡』によれば、土御門院は華やかな歌会などではなく一人静かに詠んで、定家や家隆などの歌人に見せていた。見せられた定家はその出来栄えの良さに驚いたという。
浮世にはかかれとてこそ生れけめ理しらぬ我が涙かな(土御門院)
こちらは『続古今和歌集』所収。
承久の乱直後の土佐配流中、「詠百首和歌」の「述懐」題の御製。
「かかる」は「涙」の縁語。
君を祈る心の色を人とはばただすの宮のあけの玉垣(慈円)
「ただすの宮」は賀茂神社のこと。
慈円は後鳥羽院の護持僧、つまり後鳥羽院の身を守るために祈祷する僧侶であった。その祈る心は神の名にかけて赤誠であると詠んだ歌。
『新古今和歌集』所収。
出でていなば主なき宿となりぬとも軒端の梅よ春を忘るな(源実朝)
『吾妻鏡』によれば、源実朝が暗殺される直前に庭の梅を見て詠んだとされる。
この歌は菅原道真の「東風吹かば匂ひおこせよ梅の花あるじなしとて春を忘るな」を想起させる。
感受性の高い実朝は身の危険をあらかじめ察知していたのか?と思われるような一首。
※あとでアーカイブ観て気付いたけど二句「あるじなき宿」と読んでるな。普通は「ぬしなき宿」かと。
治めけむふるきにかへる風ならば花散るとても厭はざらまし(後鳥羽院)
建保二年(1214)二月御会での御製。
「ふるきにかへる風」とはかつての聖代、延喜天暦(醍醐天皇、村上天皇)の世に戻ることができる風。他にも院は「野も山も治まれる世の春風は花散るころも厭ひやはする」と詠んでおられ、花よりも平穏な世の方を大切に思しめす大御心が拝察される。
しかしこの御製、舞台では実朝暗殺の後に挿入されていて、実朝が死んでも構わないような流れになっておりかなり納得いかない。(そもそもこの物語の実朝の扱いはなー。まぁ、そういうキャラも必要ということなのか)
秋の田のかりほの庵の苫をあらみ我が衣手は露にぬれつつ
〜(三十四首略)
夏の夜はまだ宵ながら明けぬるを雲のいづこに月やどるらむ
言わずと知れた『小倉百人一首』。
三十六首まで順に淀みなく歌いあげたのはお見事!
三十六首なのは三十六歌仙に因んだのか。
人も惜し人も恨めしあぢきなく世を思ふゆゑに物思ふ身は(後鳥羽院)
百敷や古き軒端のしのぶにもなほ余りある昔なりけり(順徳院)
この二首も百人一首の末尾なので説明不要か。
ともに『続後撰和歌集』所収。
この舞台では土御門院の御製が三首歌われているのに、順徳院はこの一首だけなのは偏ってないか?私は土御門院御製好きなので嬉しいけど順徳院ももっと入れてほしかったなぁ。欲を言えばね。
と、まとめるのに意外と時間がかかった。それほどたくさん和歌を取り扱ってくださったということなのでありがたいことだ。
後鳥羽院の「治めけむ‥‥」は上に書いた通り不満はあるけど、他は総じてセンス良いなぁという感想。
以下参考文献。
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