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「シニフィアン」「シニフィエ」からみるソシュールの世界観

菖蒲園にて。
3年ほど前。僕が上京してきたとき、横須賀のこの地を訪れた。

この風景をみたとき、蝶が飛んでいそうだな、と僕は思う(実際には飛んでいたか覚えていないけど)。

「シニフィアン」と「シニフィエ」

さて、ソシュールは「言語」を「記号」と考えた。

僕が蝶を見て「蝶だ!」と言ったり、この記事に「蝶」と記すのは、それらの音声や文字を汲み取った人が「蝶」をイメージするためだ。
そこにおける「音声や文字」を、「シニフィアン」といい、汲み取った人が得るイメージを「シニフィエ」という。

そして、これらの「意味するもの」(シニフィアン)と「意味されるもの」(シニフィエ)を合わせて、世界を見つめ直したとき、また違った世界が見えてくる。

「言語の恣意性」

では、夏の夜、街頭や自動販売の周りを飛んでいるのは?
…蛾ですね。

我々日本人は、似ても似つかずの「蝶」と「蛾」を言語的に区別している。
その一方、フランス人は「蝶」も「蛾」も、「パピヨン」という単語で一括りにしている。

そのことから、「蛾」という存在があるから、私達が「蛾」というのではいということがわかる。(シニフィエ←シニフィアン という構図ではないということ。)

このように、モノと言語の結びつきには必然性がないこと(あえて隔てていること)を、「言語の恣意性」という。

ソシュールの世界観

一つ一つの蛾や蝶といった要素が存在し、それらに名前が与えられているわけではない。
我々が、言語で世界の認識を区切ることで、それらの要素が存在している。(シニフィエ→シニフィアン の構図。)
というのが、ソシュールの世界観だ。

言語とは元より、空間を区別するための道具だ。
「あそこには菖蒲があって、その隣には桜、向こうには椿があるね。」といったように。

そして僕たちは、この言語たちの中で思考している。

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