朝倉圭一

山間の集落で小さな逃げ場所を営んでいます。 こちらは散文的な文書の置き場。

朝倉圭一

山間の集落で小さな逃げ場所を営んでいます。 こちらは散文的な文書の置き場。

最近の記事

原稿その8:多様性の民藝へ

最後に再度、冒頭に取り上げた民藝についてのお話を補完させていただき終わりとさせていただきます。  柳は民藝を民藝は規範学と考え、理想とする世界の実現を目指しました。それは、杓子定規な均一化された社会ではなく、それぞれが幸福を感じられる多様な社会であったことを今日はお話しさせていただきました。しかし、残念なことに、今日の民藝は経験学になっています。 一方では、神格化という権威付けが、もう一方は、均一化された商品という形で、どちらも柳の語った民藝とはズレています。神格化と商品

    • 原稿その7:ゴンドアの谷の歌。

       大切に長く使う、地球環境に配慮したゼロウェイストな生き方は、お金に換算してさまざまな交換を行う資本主義の成長戦略と反します。豊かさを極め、人口減に転じた我々に、たくさんの新しいものは必要ありません。テレビも車も食事もスマホも住居も、ほとんど全てのものが「限界費用ゼロ」になりました。限界費用がゼロに近づくというのは、その製品を作るコストがとても低くなったということで、一部の金持ちしか持てなかった物が貧困層にまで行き渡ることを指します。スマホもTVも車も家屋も、質を問わなければ

      • 原稿その6:「器物」と「人物」

         育児と似た性質のものに「教育」がありますが、教育は偏差値やセンター試験のような「数値化」で機能しているので2~3年で成果がはかれます。そして、教員は資格が必要な専門職です。それだけで、社会的承認性が担保されています。大変だけど意味のある「仕事」と認知されているので、変わらない日々に意味を見出しやすいです。しかし、「育児」は、現代の常識だと仕事ではありません。資格も不要です。そういう相対化し辛い役割は低く見積もられます。専業主婦も同じですね。 だからと言って、育児や主婦を資

        • 原稿その5・馬もそろばんもなくならない。

           さて、ここでテクノロジーが人間を単純労働から解放すると同時に、機械に合わせた新たな単純労働を生み出した「産業革命」の時代に唱えられた民藝の意味が見えてきます。これまでの社会との関わり方が一変し、多くの人々が誇りや自信を失い大衆が均一化したのが産業革命以後の近代です。そして、我々はテクノロジーが発展し、「これまでの社会との関わり方が一変し、多くの人々が誇りや自信を失う」という、19世紀前半とは異なるようで同室の新たな変化の渦中にいます。  自動化でなくなる職種は多いでしょう

          原稿その4:研究心が求められる時代

           落合さんは以前、民藝の魅力について、「盲目的にやりつつげることが美しさを産むという解釈がいい」と言うことを語られていたのですが、まさにそれが、今なぜ民藝なのか?という問いの意味に繋がります。現代はシェアエコノミーで共感経済で脱成長で持続可能な時代です。ですが、誰もが最初から自分にとっての「最適」な答えを持てるわけではありません、研究とは常に失敗の積み重ねから最適化を目指しますが、僕らの日常は失敗を許さない「効率的」な毎日です。 持続可能とは、同じことを永遠と続けるという意

          原稿その4:研究心が求められる時代

          原稿その3:コンヴィヴィアルと民藝

           今日求められているのは、世界中どこでも誰でも同じに安価で作れるような個々の素材の差異を濃い味でまとめる(覆い隠す)料理です。料理家の土井善晴さんは、そのような料理を「ソースの料理」と言います。これは西洋的料理です。日本にはソースで味を整える料理が少なく、「出汁」で整える料理が大半です。この差は非常に大きいです。ソースの料理は、どんな素材でも、どんなプロセスでも、最後のソースをかけることで全体をまとめます。それは、質のいい食材が手に入りにくい大陸に適して発展した料理ですが、最

          原稿その3:コンヴィヴィアルと民藝

          原稿その2:時代の変化が生んだ民藝

           柳の目指した民藝は、すでに「当たり前」の存在になりました。カレーと聞いて皆が同じ料理を想像できるようにです。今日、僕らは、好きなものを選び、好きな場所で暮らしてます。その根底には、それぞれが自由にものを選んでも構わない、自由に生きても構わないという生き方が認められる社会の「基礎」を築いた先人たちがいます。柳もその一人です。 今日、僕らが当たり前に享受している自由な社会は、それ以前の社会からしたら目指すべき世界でした。なぜ、当時それが求められたのか、それは、産業革命の余波を

          原稿その2:時代の変化が生んだ民藝

          落合陽一さんとのトークセッション原稿

          2021/12/11に日下部民藝館で行われた、落合陽一さんとのトークセッションのために用意したメモ書きです。当日は、ほとんど生かせませんでしたが、断片的に活用されました。普段から考えていることしか、対話の中では言葉として出てこないということを再確認した貴重な機会でした。 民藝とコンヴィヴィアリティの理解の助けになればと思い、加筆修正を加えここに残します。*長くなったので複数回に分けて投稿します。   その1・規範と規範以降の民藝。 民藝に関して、今一度考えなければいけない

          落合陽一さんとのトークセッション原稿

          ちぐはぐ学入門 第3回で触れた本のお話。

          第3回の放送内で紹介した本のお話です。 古くてあたらしい仕事は、ひとり出版社「夏葉社」を営んでいる島田潤一郎さんの半生を綴った名著です。 帯にはこうあります。 嘘をつかない。裏切らない。 ぼくは具体的なだれかを思って、 本をつくる。それしかできない。 物事は、シンプルであるほど繊細な部分に目がいくものです。それは嘘をつけない、誤魔化せないということです。 島田さんが作る本は、どれも優しく純粋で読んでいると心の中に風が通り抜ける様な感覚になります。夏葉社は版権の切れたか

          ちぐはぐ学入門 第3回で触れた本のお話。

          ちぐはぐ学入門 第2回で触れた本のお話。

          本を介してあれこれ話す番組「ちぐはぐ学入門」をポットキャストで始めました。 毎週土曜の22時頃より、農家と建築とデザインをして暮らしている中嶋亮二くんとちぐはぐな会話をお届けしていきます。第1回放送分の本の紹介は相方の亮二くんのnoteにて紹介させていただいております。 ちぐはぐなだけあって第二回では早速本の話をあまりしてませんが、一部触れた話について書き残しておきます。 1冊目・哲学の誤配・哲学の誤配 (ゲンロン叢書) 東浩紀 冒頭に話している「この土地にカオスが少

          ちぐはぐ学入門 第2回で触れた本のお話。

          従属する安心

          正しさが人を救うとは限らない。 むしろ分かりやすすぎる正しさは、無慈悲に相手を殺す為の最大の武器になる。 かつてヒットラーを支持したのは、虐げられていたホワイトカラーの労働階級の人々だった。 彼らは個々の判断において正しいことを行った。 強い言葉に酔い、同調することで温もりを享受し、自分たちを不当に虐げる人々に裁きを与えるべく行動した。 それは、幾らかの正義感からくる行動でもあっただろう、正義は欲望を覆い隠す為のカモフラージュとしてよく利用される。 やがて争いに勝

          従属する安心

          断罪の刃

          あいつが悪い! 自分は被害者だ!! そう言い切ることは実に容易いが、はたしてそれはどうだろうか? 桃太郎に退治された鬼にも家族がいただろうし、なんらかの事情はあったはずだ。 その声に背景に気も留めず、一方的に自分の立場から罵るとしたら、それは幼児とあまり変わりないではないか、大人の知性とは言い難い。 僕らが向き合わなければならないのは、なぜ自分自身がいい歳になってなおテレビやネットのニュースや人の噂話に腹を立て、心中穏やかでいられないのかという、自身が育ててきた不快感の根

          許すこと

          強い言葉というものは、いわば正義の言葉であり それが正義である以上その存在を保つ為に対比軸に必ず「悪」が必要となる。 そして、悪の側からしたら正義のヒーローこそ悪ということになる。 だから、少なくとも今まで恩恵を受けてきたものに対して、立場や状況が変わっただけで、無頓着に批判ができるような人の言葉は、正義とは到底言い難い。 本来の正義とは、悪を許すということだ。 そして、それは本来の民主主義の理想と同じである。 多数派の役割は少数派の意見を数の暴力や同調圧力で押し潰

          弱い繋がり

          自分の身に置きかえれば分かるように、家族であってもひとつの正しさを中心としてまとまるということは難しい。 長い時間形態を変えながらも保たれる関係性の中心に据えられているのは、正義や問題意識といった意識高い系の好む主題ではなく、子供や年老いた両親や祖父母といった弱者の存在であり、実は不自由な存在を抱えるからこそ人は不形態的は関係を適正なサイズで持続することができる。 それは人間関係においては問題解決を迅速に合理的に行うことが、最良の一手ではないことを意味している 複雑に絡

          弱い繋がり

          小さな矢印の時代

          言葉が必要とされている。 未曾有の事態でバラバラになった小さな矢印を束ねるための強い言葉が求められている。 強い言葉とはすなわち小さな矢印を束ねた大きな矢印だ。 それは、簡単に言えば多くの人が分かりやすく口当たりのいい言葉、いわゆる【正解】や【正論】を求めているということだ。 けれども、その大きな【正しさ】という幻想こそが、今日のこの不安定な状況を生み出した温床に他ならないことを忘れてはいけない 悪はいつでも平凡な我々の善意を温床として育つ。 口当たりの良い正義を

          小さな矢印の時代

          宝探しと嘘

          僕らは一度諦めて 諦めを受け入れて 共生の未来を考えなければいけない。 その為には 誰かになにかを問うてはいけない それは対立の温床となるからだ。 僕らは自分自身に問いかけないといけない。 問いを問い直す行為を繰り返さなければいけない。 答えは必要ないし そんなものはどこにもない 誰かが思い描いた幻想の産物だ。 僕らは誰かから渡された あるいは幼少期に自分で書いた ありもしない宝の地図を頼りに 見つかるはずもない宝を探し続ける そして月並みだが 宝とは、探し続ける

          宝探しと嘘