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原稿その6:「器物」と「人物」

 育児と似た性質のものに「教育」がありますが、教育は偏差値やセンター試験のような「数値化」で機能しているので2~3年で成果がはかれます。そして、教員は資格が必要な専門職です。それだけで、社会的承認性が担保されています。大変だけど意味のある「仕事」と認知されているので、変わらない日々に意味を見出しやすいです。しかし、「育児」は、現代の常識だと仕事ではありません。資格も不要です。そういう相対化し辛い役割は低く見積もられます。専業主婦も同じですね。

だからと言って、育児や主婦を資格制にすればいいとか、家事育児にポイントを与えたらいい。ということにはなりません。全てを均一化して、全員が平均的になることで平等になることは、確かに大多数を幸福にしますが、そこからこぼれ落ちる人々がいます。全体の成長のためには少数の犠牲は仕方がないのでしょうか?それでは、あまりにも進歩がなさすぎです。

すぐにお金にならないことは意味が薄いという資本主義的な価値観です。長い目でみたら「育児」の必要性は言うまでもありません。皆が自信を持って心地よく子育てが出来る時代のために、立ちはだかる問題は多いです。複数のアプローチが既に考えられいますね。DXやデータサイエンス、あるいはベーシックインカムもその解決策の一つでしょう。あるいは、SDGsや脱成長コミュニズム、マルクスの再理解なんかもあります。しかし、これらは似ていますが全然違います。特に後半のやり方は、お金に変わる新たな共通価値やスコアによる上下関係を生み出すだけで、問題の解決には繋がりにくいです。そこで民藝の意味が立ち現れてきます。やっと話が戻ってきました・・ 

ここで、落合さんが「この本を理解できない人はデジタルネイチャーを理解できてません」と紹介していた一冊「自然なきエコロジー」からの引用です。 

逆説的にも、エコロジカルな自覚をするための最上の方法は、世界を人として愛することである。他方では、人を愛する最上の方法は、その人においてももっとも内密なものを、つまりはその人の性質に埋め込まれている「もの」を愛することである。  

自然なきエコロジー

同著の指摘の中で大切だと感じたのが上記の引用部分ですが、柳も同様に、自然の事物、物の中に「人物性」を見出しました。優れた器は優れた人物と等しく、「この素直な器のように、盲目に働き、使い込まれて美しく至ることが人間の本質なのではないか?」柳はそう考えました。その気づきは、育児のように対価がすぐには還ってこない社会を生きる僕らを支える気づきです。

美しさを幸せと言い換えてもいいと思いますが、幸せとは考えて手に入るものではなく、愚直に生きていれば、やがて至る。至るのだから「幸せ」になろうという目的を目指すのではなく、変わらない日常を精一杯生きると言うことです。 これは先に説明した柳の目指したのが、貧しさの根絶した世界ではなく、貧しさを貧しさと感じない多様な世界の実現であった。という点とつながります。

 柳は使い古された器や布に、貨幣に振り回されない時代の人々の愚直で堅実な生き方の理想的な姿を見ました。しかし、現代において既存の民藝。「物」としての民藝から、それを読み解くのは困難です。それは、なぜか?

1920年当時の民藝的な物には、それを普通に使っている人々の顔、気配が残っていて、それを具体的な存在として想像することができました。あぁ、気に求めていなかったが死んだじいさんが使っていたな・・・爺さんは貧しかったのに文句も言わず懸命だったな・・という感情を物から感じられたからこそ、物は、ただの物ではなく、人物としての人格をもった存在として考えることができました。この感覚を広めると「人」と「自然」、「人」と「機械(メガネや義手のような身体の延長の道具・Z世代においてはインターネットなど仮想現実も含む)」と言う異なった要素をつなぐ「親しみ」が見えてきます。

自然なきエコロジーでも指摘されているように、親しみを支えているのは「擬人化」であり、器や自然に「人物」を見ることで、その差異が溶けてなくなるというデジタルネイチャー・計算機的自然の未来も見えてきます。

日本人はあらゆるものを擬人化します。他にも「異性化」する手法も散見されます。「自然」に人格を与えたものは神話の時代から多数存在しますが、僕らは機械や歴史上の人物すら、本来とは異なったキャラクター性を付与することで親しみの側に引き寄せています。

さて、今日、皆さんは古民家であり、民藝館でもある日下部民藝館におられますが、どうでしょう??目の前の囲炉裏から生活の苦しさを想像できるでしょうか?この建物が賑わっていた時代の気配を感じますか?おそらく難しいと思います。それは、「物」から「人の顔」が失われたからです。そして、それを感じられないのは仕方がないことです。それだけの時間が流れてしまいました。しかし、だからと言って、物から人物の気配を消していいはずがありません。それは、人を単なる機械のパーツとして考えた時代の歪さと繋がります。民藝を近代の「均一的」な存在、消費的な「売り物」に変えてはいけないのです。

その7「ゴンドアの谷のうた」に続く。

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