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原稿その8:多様性の民藝へ

最後に再度、冒頭に取り上げた民藝についてのお話を補完させていただき終わりとさせていただきます。

柳:つまり民俗学は経験学として存在するのですね。ぼくのほうは経験学というよりは規範学に属していると思います。かく在るあるいはかく在ったという世界に触れてゆく使命がある思うのです。 

柳田國男対談集 二 民藝と民俗学の問題

 柳は民藝を民藝は規範学と考え、理想とする世界の実現を目指しました。それは、杓子定規な均一化された社会ではなく、それぞれが幸福を感じられる多様な社会であったことを今日はお話しさせていただきました。しかし、残念なことに、今日の民藝は経験学になっています。

一方では、神格化という権威付けが、もう一方は、均一化された商品という形で、どちらも柳の語った民藝とはズレています。神格化と商品化は、一見異なるようで同質の問題を孕んでいます。厳しく縛ることで「かくあらねばならぬ」と言う不自由で多様ではない「均一」な世界を生み出すことと、多様性という言葉を盾に「なんでもあり」の弱肉強食という名前で、強者=正解をモデル化することで、「均一化」を生み出します。これは、どちらも近代と同じ「均一化」なのです。

しかし、思想や信心とは、本来、心を縛るものではなく、心を楽にするものであるはずです。育児の際、心を縛るのは常に「かくあらねばならぬ」という決めつけですが、心を楽にしてくれるには、いつも「そのままでいいんだよ」という周囲の理解と、容認です。民藝が目指した世界もそれと同質だと思います。

民藝に対する批判の中で多いものが、柳は入り口は設けたけれど、ゴールまで導くことをしなかった。という言説があります。しかし、これは少し的外れではないでしょうか?手をとり導くことは多様性を潰します。学校教育がその好例です。民藝に教科書があり、学校があったとして、果たして優れた人物を育てることができたしょうか?それは「自由」と「多様性」を目指した民藝のあり方と反します。現代なら或いは自由で多様な教育機関は確かに存在します。しかし、明治時代の日本でそれが出来たかといえば、やはり無理だったのではないかと思います。

僕らは他者とは分かり合えず、自分の気持ちだって理解できません。しかし、それは悲しいことなのでしょうか?1年2年の苦しみが10年後に心の支えになることがあることを皆経験として知っているはずです。諦めないというのは忘れないということです。全て置いていかないという決意です。柳の説いた民藝には深い慈悲の眼差しが溢れています。それは、確かに上流階級が下層の貧しい人々によせた情愛だったと思います。しかし、それを貴族の趣味のように言い切れる人は本当は誰もいないと思います。弱いものに対して、強くなって欲しいという願望と、そのままでいて欲しいという願望は常に心の中で共存しているものだからす。

例えば、行きつけの老舗喫茶店のマスターが高齢になり、息子さんが帰ってきてこれまでの方針を変えたら、話題になりTVに取り上げられ、やがてチェーン展開を果たす。このような状況に出くわした際に、素直に嬉しいでしょうか?お金を儲けること、有名になることで、喫茶店のマスターは嬉しそうだとしても、行きつけの常連としては、以前と変わらないままの雰囲気を残してほしかったと感じると思います。民藝を商業的に完成させるとはこのような事を意味します。結局、どう転んでも民藝は批判された事でしょう。

本来の民藝であった物は、無くなることが約束されていたのでしょう。それは、かそけきものがかそけきままでいることで至った美しさだったのです。しかし、老舗喫茶店が静かにお店を閉じても、記憶の中で美しくありづつけます。それは悲しい事なのでしょうか?しっかりとした終わりを迎えることが非常に困難ですが、向き合わなければいけない課題の一つです。そうして、ひとつの時代が終わった後に、僕らは新たにやがて老舗喫茶店となるような現代に即した新しい喫茶店を作らなければいけないのではないでしょうか?

民藝運動は、勘違いされがちですが、懐古的な保護運動ではありません。補助金で延命されている伝統工芸は多いですが、使う人を失った道具は、本来なくなるものです。しかし、悲しくはありません。それが本当に人の欲する物であれば必ずいつか見出されるからです。僕らは縄文土器ですら再興しています。永続性とは、死なずにゾンビになることではなく、どれだけ長い時間忘れられてもやがて蘇ると言う意味だと思います。

実際、新作民藝、新民藝と呼ばれた新しい民藝は、カップアンドソーサーや、洋食用のプレート、カレー皿、草鞋のサンダルのように、西洋化した生活に適した物を、日本の技術で作ったものでした。その側面を見るにプロダクトであったわけですが、100年を振り返る時、100年以前に集められたものと、100年間に作られたものをごちゃ混ぜに理解するのは、少しもったいない気がします。注目すべきは、古民藝から真民藝へとどのようなバトンが渡っていたのかという点であるように思います。その部分の再考は、柳宗悦と息子、柳宗理の間を埋めると言う形でなされるべきだと思いますが、今はまだ失われたままになっています。

話がそれましが、これからの時代、一方的な共感ではなく、双方向的な理解が求められます。時代はシンパシーからエンパシーへと変化をしていますが、それは対人だけでなく、社会や自然に対しても含まれます。すべては双方向性=インタラクティブなのだという理解が必要です。落合さんはそれを「研究心」と呼んでいますが、トライアンドエラーを繰り返して、最適解を導き出すように生きる生き方が、これからの時代の当たり前になります。そのような時代を、心豊かに生きるためのヒントは、民藝の道具のように身近なところに常に存在しているのです。

強い答えや、目的ではなく、変わらない日常を生きるための心の備えのような物を民藝から感じていただけたら幸いです。今、あなたが選んだ名もなき道具は、やがて、あなたのクセを色濃く残して美しく育つ未来の民藝なのです。そして、それはシワを刻む生きたかという意味で、人生そのものの美しさへと繋がります。いつまでも綺麗でいられない代わりに、美しく育つことができる。深い示唆を与えてくれるものへと至れる。民藝は無くなりません。どのような時代になっても求めれられるものでしょう。それを懐古主義に留めてはいけない、消費的に扱ってはいけないと言うのは、そのまま、人との付き合い方に通じます。

このように語り尽くせないほど、民藝は深い示唆にとんでいるのです。そして、それは家庭の中に既に存在しているのです。生活を見渡してみてください、きっと一つは使うことで育った美しい物がある事でしょう。それは、どんな時代になっても奪われない、あなただけの価値になるのです。
 


・あとがき
30分程度話すために書いたメモに肉付けをしたところ、やたらと長くなってしまったので9回に分けて記事にしました。落合さんとの対話の翌日にまとめた文書です。熱意だけで書き切ったので、抜けや誤字があるかと思いますが、そのまま勢いでUPしております。読み難いところが多々あるかと思いますがご了承ください。

最後に本稿を書く際に参照した書籍と言の一部を引用させていただきます。理解のお役に立てば幸いです。
 

「コンピューテーションナル・フィールド」とはなにか。それは華厳の言葉では「時事無碍」(現象世界のすべてのものごとが相互に関連・融合し、そのままで真実の世界を完成していること)と呼ばれたようなものだ。華厳の宇宙観や世界論によれば、万物は本来ひとまとまりでありこの世の万物は縁起によって関連し合っているとされている。それは、近代に見られたような個に対象を分断する世界観とは異なっている。  

落合陽一 デジタルネイチャー

こうして、人々の労働は、機械の指示のも働くBI的な労働(AI+BI型・地方型)と、機械を利用して新しいイノベーションを起こそうとするVC的な労働(AI+VC型・都市型)に二極化し、労働者たちはそれぞれの地域でまったく違った風土の社会を形成するはずだ。 

落合陽一:デジタルネイチャー 

龍樹は「延起を見る者は空を見る」、延起ということがわかった人は空を見ることが出来ると言っている。スチェルバスキーという仏教学者は昔、空という言葉を英訳してリラティヴィティ(相関性)と訳したが、そういほうがいいであろう。空を、実体としてしの空、何もないものがあるというのは誤解であって、関係性においてあることが空なのである。

鎌田 茂雄:華厳の思想

産業主義的な生産性の正反対を明示するのに、私はコンヴィヴィアリティ(自律共生)という用語を選ぶ。わたしはその言葉に、各人のあいだの自立的で創造的な交わりと、各人の環境との同様の交わりを意味させ、またこの言葉に、他人と人工的環境によって強いられた需要への各人の条件反射づけられた反応とは対照的な意味をもたせようと思う。私は自立共とは、人間的な相互依存のうちに実現された個別自由であり、またそのようなものとして固有の倫理的価値をなすものであると考える。 

イヴァン・イリイチ:コンヴィヴィアリティのための道具 

だれもが欲深いからこそ、それを同時に成り立たせ、不満が出ないようにするために、公平/公正な仕組みが編みだされてきた。~中略~ モースの描き出した「平等社会」は、善人の善人によるユートピアではない。むしろ人間が我欲しいという業を抱えた不可然な存在だからこその仕組みなのだ。

松村圭一郎 ・くらしのアナキズム 

ここで強調しておきたいのは、「新しい日常」が何を意味するのかは、一人ひとり違うということです。これまでの日常は、社会が求めるスタンダードや平均に合わせて、生活していくことでした。
しかし「新しい日常」は、集団平均ではなく、個別の生の豊かさを大切にしながら、同時に持続可能な社会を実現するものでなくてはなりません。

宮田裕章:共鳴する未来

でも、僕はセンニンではなく、いつも町の近くにいたいと思っています。なぜって、ひとや社会とちゃんと向き合っていないと、頭の中だけでは、糸の切れた凧みたいに現実から離れてしまうから。僕はそういうのがどうも好きになれません。いつまでも洒落っ気を失わないで、町の灯にも心そそられる世俗的な人間でありつづけること。「普通」の暮らしのなかにも、豊かなものがいっぱいあるから、その豊かさの中で暮らしたい、と思うのです。

三谷龍二:三谷龍二の10センチ

本書であえて「コンヴィヴィアル」という言葉に注目するのは、この言葉には冒頭でも紹介したように、日本語の「共生」という言葉ではすくい取れない、「異なる他人同士」が「ワイワイと賑やかに集っている」といったニュアンスが含まれているからだ。「コンヴィヴィアル」という言葉には、「カーム(静か)」に存在が見えなくなっていくのではなく、人間と共にいきいきと「生きる」テクノロジーのイメージがあるのだ。

緒方壽人:コンヴィヴィアル・テクノロジー

確固たる専門性とオリジナリティを持たない限り、この世界で「自分という人間の価値」を自己肯定することはできないでしょう。
世界に変化を生み出すような執念を持った人に共通する性質を僕は「独善的な利他性」だと思っています。それは、独善的=たとえ勘違いだったとしても、自分は正しいと信じていることを疑わず、利他性=それが他人のためになると信じてあらゆる努力を楽しんで行うことができる人だと思います。そのためには、猿真似でもいいから始めること、そして自分の視座を執念深く追求し、興味を見つけ極めていくことが重要なので、たくさんの知識を貪欲に吸収してオリジナリティを追求していって欲しい。それはこの先、いつの時代でも幸福な生き方だと思います。

落合陽一:これからの世界をつくる仲間たちへ

分けて逸らした世界から跳躍した先が、「公の世界、誰も独占することのない共有のその世界」と言う社会像です。もちろん社会像というには、これだけではあまりにも漠然としていますが、少なくとも柳の中では、私有独占ではなく共有、分断ではなく連携を旨とす理想の共同体のイメージが、絶えず民藝というコンセプトとともにあったということはできるでしょう。

鞍田崇:民藝のインティマシー

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