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短編小説

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記事一覧

白い手

「離れたい」
 と田崎は思った。
――離れたい。
 何からだろうか。仕事だろうか。生活だろうか。それとも人生からだろうか。
 よくわからない。仕事では一日を過ごすので精いっぱいだ。赤字赤字と聞かされ、効率を求められ残業代を請求するごとに叱責と毎日の嫌味が多くなる。ついには細かな仕事の動きまで指摘されるようになってきた。
「うんざりだ。みんな死ねばいい」
 何社かを転々としてきた田崎は決して有能なわ

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壁の音

 話下手。人づきあいが苦手。心が弱い。愚痴をすぐ吐く。優柔不断。挙げればいいところがないように思えてくる僕にもめでたく彼女が出来、なんとか続いている。
 どうして付き合いだしたのか、はたから見ても不思議に違いない。共通の趣味はなく、性格も対照的。読書の感想を書くサイトで互いに知り合い、面白い本を教えあっているうちに連絡先を交換し、毎日やり取りするようになった。
 やりとりはするが、互いに愚痴っぽく

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堆積する泥

 人は汚泥の中でもがくのだろうか、と神村は思っていた。

 今時珍しくペンと原稿用紙で小説を書き、昔なら三文銭と言えるようなわずかな収入を得ながら生き延びていた。もはや風貌は浮浪者とさして変わりはない。

 神村清語というペンネームだが、これは本名の村上清志をもじったもので、清き言葉が神より降りる場所、という意味も込めていた。

 たいそうな名前だが作品は売れず、売れないからと言って面白くないわけ

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「夢のまにまに、流星。」

「さあ、お休みの時間ですよ」

「早く寝なさい。寝ないと大きくなれませんよ」

「お化けの出る時間になるから、子供は早く寝ないといけないんですよ」

 今日の新しい眠りに入るために、母親は、父親は、どのように子供に声をかけるのでしょう。

 子供を寝かしつけたあと、少しだけ二人の時間を楽しんで、そして眠りについていくのでしょう。

 新しい眠りに入った子供たちは、一体どんな夢を見るのでしょう。

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自殺日和

 星月夜(ほしづきよ)が巡り、コオロギが山で鳴く。

 ナナカマドの葉が秋時雨を弾き、紅(べに)に染める。

 うろこ雲が流れて秋麗(あきうらら)。

 イチョウが黄金(こがね)の扇を散らし、土に添う。

 私はモミジやカエデが染まり落ちるのを眺め、また一つ、季節の死を、胸にざわめかせている。

 

 一人、公園の池で鴨のつがいを眺めている。

 もう寒くなるのに、あなたたちはお尻をかわいらしく

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「銀と月下の泥」

 随分手が冷えてくる、肌が突っ張る。

 そろそろ雪が降りそう。

 待ち焦がれた季節。

 空を見上げれば、曇り空が多くて。そこから数日。

 ようやく降り出した十一月の雪は六十二年ぶりの降雪量だった。

 積雪四十四センチ。湿った雪は木の枝に張り付いて一週間前に落ちきった葉の代わりに白い葉をつけている。

 赤みがかったロングブーツを急いで引っ張り出して埋まる足元を気にしながら夜を歩く。

 

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「変わらない女」

 家の鍵を回す手が重く感じる。

 デスクワークなのに、今日は一際厳しかったせいなのかな。

 心すら引きずりそうになりながら、ぐったりとした体が安堵の溜息を出す。

 左手の深夜スーパーで買ってきた袋の中にはお惣菜やレトルト食品が入っている。

 ドアを開けると明かりが既についていて、いつもは安心感を与えてくれるはずが、やけに二の足を踏ませる。

 そういえば彼氏が来ているんだった、と自分でメー

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