白い手

「離れたい」
 と田崎は思った。
――離れたい。
 何からだろうか。仕事だろうか。生活だろうか。それとも人生からだろうか。
 よくわからない。仕事では一日を過ごすので精いっぱいだ。赤字赤字と聞かされ、効率を求められ残業代を請求するごとに叱責と毎日の嫌味が多くなる。ついには細かな仕事の動きまで指摘されるようになってきた。
「うんざりだ。みんな死ねばいい」
 何社かを転々としてきた田崎は決して有能なわけではないが周囲よりかは必ず少しできる。自分がどの位置で頑張っていれば立場的に不利にならず無難に過ごせるか知っていた。
 だから言わば会社のハウスルールの中にどれだけおかしなものがあったとしても決して口を出さず、言われたことをやり、気が付いたところをさりげなくカバーする。
 直属の上司は、その会社のことしか知らない。だから自分のやり方が「一番効率がよく会社にとって一番よい方法」だと信じているが、実はそうではないことを田崎は論拠を持って示せる。だが、それはやらない。
 一社に務めあげることがよいことだと信じ切っている上司には仕事の内容に辿り着く前に田崎自身の経歴に触れだして必ず脱線する。そして最後に自分の経験論を貫き通そうとする。
 時代は経験論ではなく既に科学的根拠をもって示すこと重視している。だからこそ人によってぶれない論が出来上がる。
 仕事終わり、我を失うほど酒をあおりたくなったが、考え直した。
 文句を書いて皿を割るバーにでも行こうか。それとも行きつけの小料理屋。バッティングセンターで無心にボールを打ち返そうか。
 車の運転席に乗り込み深いため息をつき、カバンを助手席に乗せる。
 よく見ると黒いレースのパンティが助手席に落ちている。シートが黒だし座布団を敷いているから気が付かなかった。
 昨夜のことを思い出し、携帯アプリで連絡を入れると「持ってきて」とすぐに返信が来た。
「ちょっとだけ遠くへ行きたいから明日でいい?」
「どこに行くの?」
「海が見える場所がいいな」
「暗いけど見えるの?」
「音だけでもいい」
「一緒に行っていい? パンツ返してもらいたいし」
 結局彼女を迎えに行くことになったが、落ち着かない。求められても今日はしたくはない気分だったし、一人になりたかったが、断る理由もなかった。
 マンションの前に車を付けると、既にロビーで待っていたらしく、すぐに出てきて乗り込む。
 助手席に置いてあったカバンを後部座席に置くなり「パンツ」と彼女は言ったので渡す。
 白い薄手のTシャツにデニムのミニスカートというラフな格好だった。
 いつもならパンティを渡した時点でからかってきそうだが、静かだった。
「どこに行くの?」
「南かな」
 答えると車を出す。
「明日仕事なんだろ? いいのか?」
 田崎が少しだけ気を利かせる。内心重苦しくまとわりついてくる心の霧に一人になればよかったと後悔し始めていた。
「いいよ。様子見たかっただけだから。眠かったら寝させてもらうね」
 田崎はため息を一つつく。
 真っ直ぐ道を南に走らせれば国道の終着点が工場街になる。そこに観光スポットの岬があるため向かおうと無心になった。
 信号で止まった時、時折彼女の方を向く。
 彼女は心配そうにこちらを振り向くが、田崎が喋らないため、また前を向きだす。
「疲れたよ」
 田崎が低い声で言うと「私も」と言うため心臓が一度強く鳴った。
「何に?」
 心配になった田崎は多少運転に集中できなくなっていた。
 右手に空港が見える。最終便が着陸しようと、すぐ上を爆音でかすめていった。
「仕事だよ。あなたのことじゃないよ」
「なんだよ。驚かせて」
「驚かせたのはあなたでしょ。仕事大変なの?」
「大変じゃないよ。よりよいものを通そうと思っていても上の人間が頑なに自分のやり方を信じていたら直すものも直せないなって。嫌味ばかりだし赤字のためか結構きつくなってきた」
「離れるべき。泥船に乗っていたって、いいことないし。人事だってお金のかかることだってわからない上司は会社のガンだし」
「的確なアドバイスありがと」
 彼女は田崎より三倍の年収がある。引き抜かれるごとに年収が上がっていった。この国では珍しい立ち回りができている。
 田崎は彼女よりキャリアや年収で劣っていることに多少のコンプレックスは抱いていたが田崎の生活にほとんどを合わせてくれていた。
 途中霧雨が打ち付けてくる。ワイパーを激しく動かさなければ前が見えない。時折見える車のライトが地面から反射して見づらくなることもあった。
 赤信号で停車するごとに彼女を見る。彼女も見てくる。
 青信号になり車を走らせ周囲に突然飛び出すような影がないか注視をする。
「泊まらないんでしょ?」
「ああ。見たら帰るつもり」
「私の顔気になる?」
「いや……」
「一人になりたかった?」
「なりたかった。何も考えたくなかった。転職だって、もうそんなにしたくないしな……」
 それ以来無言になってしまった。考えることをやめた。
 深夜に差し掛かってくる。霧雨が降っていたのは一部の地域だけで抜けてしまうと後は雨が降る気配もなかった。
「どこか目指している場所があるの?」
「〇〇岬」
 田崎が告げると彼女は検索をしだす。
「夜に行くの? 心霊スポットって出てくるけど」
「え? あそこが?」
 何度か彼女とも行った場所だったが心霊スポットで検索上位に出てくるとは思ってもみなかった田崎は彼女に読んでもらうことにした。
 岬の上には展望台があり鐘があるが、その鐘が誰もいないのに鳴り出すとか、自殺したカップルがいて無残な死に方をしたとか、変な声が録音されたなどといったものだ。
 聞いた時は怖いとも思わなかった田崎だった。
 それよりもトラック等の大型車が随分いるが、赤信号でも若干早めに出発しようと進みだすのを何台も見て、むしろ人間の運転の方が怖かった。
 夜のため多少のスピードを出す。日中は暑かったが夜は肌寒くなっていた。
 四時間近くかけて目的の街に辿り着く。大きな橋があってライトアップされているが、深夜は消されていた。
 コンビニに着き、飲み物を買おうと彼女を見るが眠っていた。
 田崎はため息を一つつく。買ってきた麦茶を口に含み、彼女の髪を撫でた。
「努力の差なのか、それとも別の差なのか……」
 田崎は行った職場の約半分くらいから嫌味を言われ続けた。大人しくしていると嫌味に拍車がかかってくる。心を壊しかけたこともあった。倒産も二社ほどあったが、ほとんどは人間関係による離職だ。
 ため息とは違う、大きな息を吐く。
「よし、行くか」
 独り言をつぶやき、後一キロもない岬へと向かう。
 上り坂を登っていくと急に霧が立ち込めてくる。
「なんだ?」
 民家も途中まであるが、視界はまだいい。
 曲がりくねった道をアクセルを強めに踏みながら、ゆっくり行く。
 民家が切れたところから霧がますます濃くなってくる。
 岬の駐車場までは五百メートルを切った。
 ついには十メーター先も怪しくなるほど視界不良になりハイビームに切り替える。
 冬場に猛吹雪にあったことがある田崎だが、今日のような見通しの悪さは初めてだった。
 ついに岬の駐車場まで辿り着くが電灯がついているにも関わらず深い霧で見晴らしが悪く岬の反対側にあるはずの街の光がまったく見えなかった。
 まるで違う世界に来てしまったかのように。
 田崎は階段を上る。霧がうごめいていて肌が冷えてくる。
 公衆トイレが見えてくる。トイレの前には金属の骨組みで作られた地球儀がある。
 田崎は足を進める。
 息が上がってくる。
 地球儀を超えれば展望台への道がある。
 街灯はそこで切れており、後は暗い道を進むだけだ。
 深いため息を一つつく。
 先ほど検索で出た「心霊スポット」の文字が頭をかすめる。
 今ここは人間の住処ではない気もしている。別の場所へ繋がっているのではないか、と。
 ふっと濃い霧の中に白い手が見えたような気がした。
 瞬間、足が止まる。
 周囲を見回す。
 下にハイビームをつけた自分の車がある。
 中では彼女が眠っている。
 展望台の方向を見上げる。
「死にたいのか。俺は」
 体が自然に震えてくる。霧はうねりを見せて早く流れている。
「ウオオオオォォォォン」
 風の音だろうか。妙な音まで聞こえだす。
 暗闇をじっと見つめる。
「結局俺は振り回されて生きているだけの人間だ。そんな人間に価値はあるのか。何も自分で選び取れないで流されているだけの人間」
 震えながら発した言葉は暗闇に飲み込まれ、そして霧はゆっくりと無数の手になり田崎を掴んだ。
 しかし白い無数の手は田崎に触れているようで力はない。
 全身を恐怖で震わせながら、ゆっくり足を後退させようとすると足取りが鈍い。引き返したいはずなのに体がうまく動かない。
 田崎が胸の奥から彼女の名前を絞り出そうとした時、田崎の名を呼ぶ彼女の声が聞こえた。
 白い手は闇の中へ戻り、ただの濃い霧が依然と立ち込めるようになった。
 深いため息を一つつく。
 自分の手を見る。
 まだ震えている。
 走って階段から転げ落ちても大変だと思い、しっかりした足取りで展望台に背を向ける。
 車に乗り込み彼女を見つめる。
 まだ眠っていた。起きた気配もなかった。
 麦茶を飲んで一呼吸置いてからゆっくり車を動かす。
「ふふふ」と妙な笑いが一瞬込みあがってきて「帰ろう」と思った。
 民家がある場所まで辿り着くと霧は綺麗に晴れる。
 先ほどのコンビニまで着くと、彼女は目を覚まし「着いたの?」と眠そうに声をかけてくるが「霧が濃すぎて行けなくて諦めたよ」と言うと田崎の手を握ってきた。
「どうしたの?」
「少し怖い夢見たから」
 田崎は彼女の手をまだ震えの残る手で握り返した。
 車を少し走らせ見晴らしの良い高台まで来ると霧はなかった。岬にだけ立ち込めていたことがわかったため彼女に言うと「そうでしょうね」と疑問符も差し挟まなかった。
 高台から橋や対岸に見える工場の光を眺める。
 田崎は彼女を抱きしめたくなり無言で優しく彼女を包み込んだ。
「大丈夫? 震えてる……」
「大丈夫だよ。帰りは高速で帰ろうか。あとさ、少し、したい」
「いいよ。パーキングエリアで少ししよ。今日、履いてないから」
 彼女の白い手が田崎の頬を撫でた。

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光野朝風
あたたかなお気持ちに、いつも痛み入ります。本当にありがとうございます。