「銀と月下の泥」
随分手が冷えてくる、肌が突っ張る。
そろそろ雪が降りそう。
待ち焦がれた季節。
空を見上げれば、曇り空が多くて。そこから数日。
ようやく降り出した十一月の雪は六十二年ぶりの降雪量だった。
積雪四十四センチ。湿った雪は木の枝に張り付いて一週間前に落ちきった葉の代わりに白い葉をつけている。
赤みがかったロングブーツを急いで引っ張り出して埋まる足元を気にしながら夜を歩く。
ぬかるんでいるように雪は積もっているけれど、時折凍てついていて滑りそうで怖い。
転んで白いコートが汚れてしまったら困る。
ふらふらと歩く。車を出してくれる。送ってくれる。そんな男は沢山いても、なんだか違う。
だって目的地がないから。
前に付き合ってた彼氏、滅茶苦茶だったな。
「散歩したい」って言って出て行って、酒臭くなって朝方に帰ってきて、大きなイビキかいて寝て。
ノーベル文学賞取るんだって、取れるんだって、酒ばかり煽って、馬鹿らしくなったわけじゃないけど、なんか怠惰さを手助けしているみたいな気分になって別れて、全部連絡手段絶って、さっと忘れようとしている。
私、普通に歩いているつもりなんだけどな。さっきから往来少ない車が高速道路を走るみたいに物凄いスピードで走りすぎていく。私の時間だけ遅くなったのかな?
雪が降り終わった後の凍てつきは、月の陰りを走らせて鈍い色で光らせる。
ピシリ、ピシリと肌を打ってくるのは夜の街の光なんだろうか、それとも月の光なのか。
あの日のキスの柔らかさを、ふっと思い出そうとして、そういえばあの柔らかさは彼のものなのか、それとも私を抱いた誰かのものだったのかよく思い出せなくなった。
ジャッジャッ。氷を踏みにじる音が月を削っていくよう。
そういえば彼、酷い時にはコンビニで買った安ウィスキーの小瓶を直接煽ってたんだっけ、と思い出し真似しようと買ったのはいいんだけど、ちょっと買うのも恥ずかしかったし、そして裸の小瓶を片手に持つだけでも周囲を気にしてしまうほどなのに、キャップを開けたら消毒液の臭い。
口をつけて少しだけ飲む。舌が痺れ、喉がきつく締め付けられ、食道や喉が焼け付くように熱くなっていく。
大きな公園のイルミネーションが消灯し、月夜の星たちが輝く頃、浮浪者みたいな真似して、酔いが回るよりも恥ずかしさで赤くなっている。
「死ねばいいのに。あのクズ」
コートのポケットにすぐさまウィスキーの瓶を隠す。
知ろうとなども思えない、街はそのままの姿でいつもいる。彼がどこへ行こうと、どうなろうと何も変わらないのだろうとも思う。
私、なんでこんなことしてるんだろう。馬鹿らしい。
好き、嫌いはきっと条件反射のようなものなんだろう。
吐き気がする。
私には安酒は合わないみたいだし、きつい度数のものをグイグイ煽るなんて、まるで映画の中に出てくるやさぐれた男で、たいていは破滅に向かっていくようなやつ。嫌い。
月の光は長い針。人口のイルミネーションより綺麗な凶器。全ての針で私を一本ずつ貫いていけば、針先から流れてくる血の滴りの中に本当の気持ちが見えてくるかもしれない。
向かう場所が違えば、お互いが遠くなってしまうのだろうか。男と女。
宵に深みが増すごとに凍てついてくる。ブーツを取り込んで私を凍らせ、街も全て凍れば美しい。
空車の赤いランプを光らせたタクシーが何台も通り過ぎていく。ガリガリと氷のアスファルトの上を。
街をさ迷っても何か見つかるわけじゃない。たぶんだけど。
頭痛い。
お酒が酷い。
膝を突いてしまいそうなほどに、お酒にやられてる。夜が裂けて私は燃えて黒い消し炭。
これ以上は。
携帯電話を取り出し、適当に履歴漁って、通話ボタンを押してみる。
「どうした?」
「あー、車出して。もう歩けないんだ」
私、誰と電話してるんだろう。
「ああ。わかった。どこにいる?」
「うーん?」
電波塔のデジタル時計が十一時過ぎを示している。夜はもっとあるけど、それどころじゃない。
何を求めていたんだろう。キンと張った空気に私の息は白。
確かにここに私はいるのに、見慣れたものが目の前にあるのに、頭痛のせいなのか何処にいるのかわからなくなる。ドクドクと受話器の向こうで期待するような下衆な泥が受話器を越えて流れ出してきそうで、困って言葉に詰まった。
「聞いてる? もしかして何処かわからないとか?」
「ごめん。わかんない」
通話を切れば、流れ込んできそうな男の独特の嫌らしさみたいなやつも切れた。
馬鹿な時間を過ごした。どうして私、こんな。
タクシーを拾い、自分の住所を告げる。
何か変。本当に自分の家に帰るのかな。
嫌いだ。本当に。吐いてしまいそうな自分にも、頭の痛さも、意味不明なことをしている自分も。
さっきまでの世界は崩壊していて、タクシーは街灯の下をくぐるたびに見えないトンネルをいくつも通り抜けていくようだった。
この先には怖いものが待っている? 未来は明るい? でも私は私。変わらない毎日がきっとある。
マンションの部屋の前まで辿り着く。ドアを前にして鍵穴にいつもと少しだけ重く感じる鍵を差し込み回す。
カチャリ、と音が鳴り、きっと背中の世界は完全に崩れ去り、彼がいた世界もそこで消え去った。
部屋の中に入り扉を閉めれば、もう彼の世界へは二度と行けなくなっている。
明日休みの日、もしドアを開けて街に出ることがあれば、いつもの世界がある。
テレビをつければ深夜の天気予報では、明日は暴風雪。きっとお買い物どころじゃない。
コートを脱ぎ捨てテレビをつけっぱなしにしながら、あまりの具合の悪さにベッドに倒れこんだ。
「泥のようだよ。泥のようになってるのさ。眠って、壊れて、生まれ変わることなく、命が溶けてさ」
彼の言葉が頭をよぎったけれど、どうでもよかった。
もうすぐ私も泥みたいに眠る。