「変わらない女」

 家の鍵を回す手が重く感じる。

 デスクワークなのに、今日は一際厳しかったせいなのかな。

 心すら引きずりそうになりながら、ぐったりとした体が安堵の溜息を出す。

 左手の深夜スーパーで買ってきた袋の中にはお惣菜やレトルト食品が入っている。

 ドアを開けると明かりが既についていて、いつもは安心感を与えてくれるはずが、やけに二の足を踏ませる。

 そういえば彼氏が来ているんだった、と自分でメールの返信をしたにも関わらず今は逆の気分で重苦しかった。

 玄関の足元を見ると脱ぎ散らかされ、かかとの潰された汚らしい運動靴があった。

「いい加減にしてよ」

 といつもは気にも留めない光景に腹立たしさを覚え、散らかしこそしないまでも揃えない靴を今日に限ってきちんと揃えて上がっていく。

「おかえり」

 深夜番組を見ながら、スナック菓子をつまみにチューハイを飲んでいる彼氏を見て「遅くなった」とも「仕事が忙しくて」とも言わずに一言「ただいま」だけを伝える。

 スーパーの袋をガサゴソと音を立てて中のものを取り出すと案の定彼氏が「ダメじゃないか。レトルトのものばっかり買って。そういうものは添加物も沢山入っているし、体によくない。栄養を取るならちゃんと調理したものを食べないと健康へのリスクだって高まるんだぞ」とげんなりするような忠告をしてきた。

「あのね、いい加減にして。私今日とても疲れているしお腹も空いていてすぐにでもご飯食べたいの。私のお金で出して食べているものなんだからいいじゃない」

 お腹がすいていて仕事で疲れていてストレスが溜まっていて、外資にシェアを取られるかどうかの瀬戸際のやり取りが続き気が抜けない状態が明日も待っているというのに家の中でも誰かにあれこれ指図されたり、ましてや自分の家なのに誰かに説教なんてされたくない。

 実際深夜帯に開いているスーパーは、ほとんどの品揃えがレトルトや出来合いのものばかりで商品の方向性が徹底していた。つまり、疲れて帰ってきてこれ以上家事をしたくない社会人向け、と言ったらいいのだろうか。後は生活必需品が揃っていて「料理する人向け」ではない。

「結局病院に行くことにでもなったら、その治療費が高くつくじゃないか。いかに面倒でも、リスクという小さなコストを払い続けているんだから……」

「スナック菓子食べながら、安いアルコール浴びている男の言うセリフなの!? あなた、いつも人に偉そうに言うけど自分がそれを守った試しある!? 私のこと守るって言っておきながら私より稼ぎはないし、マザコンで自分の家族の方をいざって時優先させるし、今の環境を変えられなくてズルズル過ごしているだけなのに自分はこうするしかないみたいな言い訳ずっと続けて、いい年して恥ずかしくないの!? それとさ、前の彼女のこと話題に出すの本当にやめてくれる!? 気持ち悪くてイライラするし、切れた女の男のことで何か言うのって、どこまで湿っぽいの!? 私仕事してきたの。明日も物凄くピリピリした状況が続くってわかってるの。ここが束の間の休息の場所なんだから奪わないでくれる!?」

 一言堰を切ると止まらなくなっていた。普段思っていたことをだいたいはぶちまけて心から溜息が出た。

 彼氏になって二年。最初の半年はよかったけれど、徐々にお互いの弱さがわかるようになっていた。健康志向というわけではないけれど、それ以外にも色々彼氏は調べた知識で心配をしてくれている。そして自分の中の「正論」をやたらに押し付けてくるため、現場で働き日々微妙な調整や利害の関係で苦しめられている私にとっては正直何の役にも立たない理屈だった。

 私も寂しかったせいもあったんだろう。彼氏と別れて半年。同棲していた時の家の中のぬくもりが忘れられなくてバーで一人酔っ払っていた時に気が合った男とこうして付き合ってみれば、あちらも同じような事情を抱えていて、最初の頃は余計に分かり合えていると勘違いしていた。

 でも付き合っていくごとに違いを感じ、一番困ったのは、いちいち打たれ弱く一度言っただけで一週間は落ち込むことだった。体だけは大きいのに頼りがいがなく、とても不安になる。このことでも後になって彼の精神のケアをするのは私なのだ。それすらも腹立たしい。

 私は一度として前彼のことを話題に出したことはないのに、彼は寝取られた挙句、四ヶ月ほど気がつかなかったらしく、その間デートやプレゼントもしていたことを今でもグチグチと未練がましく言うことがあるのだ。寝取った男のこと、女に渡した多少の金品やプレゼントの食品が男に使われていたこと。最初の頃はさすがに同情して聞いていたけれど、さすがにねちっこ過ぎて気持ち悪いと思い出していた。

 一体あなた、今誰と付き合ってるの!? と声を荒げたくなる気持ちを抑えこむのもストレスで、今は冷たく「やめてくれる? しつこい」と突き放すだけだった。

 彼は痛いところを突かれると、いつも黙り込んで落ち込んでやり過ごして、また元に戻る。この繰り返しだった。

 テーブルの上に散らかった即席ご飯のパックとレトルトの中華丼、そしてサラダと肉じゃがが虚しそうに転がっている。

 私、中華丼結構好きだったんだけどな……。

 全部は食べきれないからご飯と中華丼は半分ずつ食べて朝に回すことにしていたのに、今はお酒だけ飲みたい気分。

 私、一体誰を大事にしたいんだろう。そして彼も、誰の心を大事にしたいの……?

 そうやって他人のことを心配しながら結局自分の気持ちを一番大事にしているから、その自己中心的な気持ちが相手に伝わってふられたんじゃないの……?

 と、考えると我が身のことのようにも思えてきて、余計に疲れてしまった。何かを言う気持ちにもならない。

「ごめん。俺、お前のこと真剣に考えてるから、つい……」

 彼の暗い声に反応する気にもならず、会話すら拒絶しようとしていた。どうせ学ばない。どうせ変わらない。

 私だって今の状況で変わることはできない。なんやかんや、この仕事が好きだから。

 会社の上司のほとんどは旧体質の頭をしていて「君、結婚は考えているのかね?」など、さり気無くセクハラにも近い言い方を時折されるのだから、この仕事が失敗に終わったら「だから女は」と言われるに決まってる。

 それなのに彼氏ときたら、そんなこともわからないんだ。男なのに、ちゃんと真剣に自分の人生を見つめていないんだ。真剣じゃないから職場で起こる緊迫感も事情も汲めないんだ。だから私より稼ぎが断然少なく、いつまでも自分を変えようとしないんだ。

 ……あっ……私、この人のこと見下してる……。

「うっふふふふふ。ははははははは」

 寂しい笑いが乾いた胸の奥から吹き上がってくる。

 何が起こったのかもわからず、きょとんと私を見つめる彼氏。

「ねえ、別れようよ。もうやっていけない。疲れちゃったよ。明日の朝まで居ていいから、合鍵は置いていって」

 諦めなのか、勢いなのか、溜息を出すように告げていた。

「わかった。俺も頭を冷やすよ。だから君も冷静になったら、お互い話し合いを……」

「そういうところが大嫌いなの!!」

 彼氏にとっては理不尽なんだろう。私には理由を説明するのが面倒なくらい当たり前な事なのに。

 そして最も理不尽なのは快く家に来ることをメールで返信されておきながら、職場の苛立ちをぶちまけられた挙句別れの言葉を聞かされることだろう。

 そうだよね。わからないことだらけだよね。

 でもね、それくらいわかって欲しいの。わかって欲しかったの。自分のこと並べ立てる前に、もっと。

 彼氏があからさまに後ろ髪引かれながら出て行ってから、私はドアの鍵をかけ、散らかったお惣菜をそのままにテーブルに突っ伏して号泣した。

 何が悲しいのだろう。明日目が腫れて仕事に影響出ないかな。

 どうしてわかりあえないんだろう。どうしてわかってくれないんだろう。

 そういえば私、前の彼氏とどうして別れたんだっけ……。

 今は「前の前の彼氏」か……。

 朝まで居ていいって言ったのに、すぐに出ていっちゃった。引き止めようとも寂しいとも思わなかった。私はただ安らぎたかった。その時間が欲しいばかりに、これ幸いにと彼氏を捨てたんだ。

 きっとまたどこかで寂しいと思って、男と付き合い出しちゃうのかな。

 この三年間忙しすぎて恋愛をする気にもならなかったし、別れたショックも一切引きずることはなかった。そしてこれからもそうだろう。

 なのに、私は、どうして、泣いたのだろう。

 居間のミニテーブルの上に置かれた飲みかけのチューハイを流しに全部捨て力の限り握りつぶして分別用ゴミ袋に、スナック菓子はゴミ箱に振りかぶって投げ捨てた。

 そして部屋中に消臭剤をかけ、ベッドと玄関には念入りにかけ、シーツは剥がして全て新しいものに取り替えた。

 時計は一時に近かった。余計な事に時間を使いすぎた。睡眠時間は二時に寝たとしても四時間少し。飲めるお酒の量はシードルだったら小さいやつが一本。それ以上は明日に影響が出るかもしれないから飲めない。

 計画的で、計算的生活。

 もう少し、かわいい女になりたかったな。

 棚の上に飾られた集めているキャラクターもののコレクションたちが私にいつも笑いかけてきてくれる。

 その中にコップの淵にかけられるものがあり、薄くピンクがかったガラスのコップにシードルを入れて淵を飾る。

「また、お前と私だけになっちゃったね」

 きっと、こんな辛気臭いところがかわいくないんだろうな、ともう一人の私が見下ろしていた。

 明日がある。シャワーを浴びて全て忘れて寝よう。私には大事な日が待っている。

 タイミングが悪かった、という話ではなかった。

 ただあの人は、私の変化に一切気がつかなかった、というだけの話なのだ。

 シードルを飲み干した後、シャワーを浴びるために浴室でブラジャーを取ると左乳房の脇に五日前彼がつけたキスマークがぼやけて消えそうな勢いで残っているのを鏡で見た。

 いつもと、変わらない女がそこには居た。

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光野朝風
あたたかなお気持ちに、いつも痛み入ります。本当にありがとうございます。