【伊藤比呂美著『いつか死ぬ、それまで生きる わたしのお経』書評】暮しのもろもろと日々声に出して読みたいお経。
■無のダンスを踊るかんのん
タイトルも、小さなお経のようだ。すぐさま声に出し唱えてみたくなる。いつか死ぬ、それまで生きる――これはわたしたちの合言葉ではないか。それにしても、こんなにたくさんのお経があるなんて知らなかった。本書には、現代語訳によって生々しい命を授けられたお経と、生き死にをめぐるエッセイが収められている。今を生きるものばかりでなく、死んでしまった人々、いきものたち。そして彼らを取り囲む自然、記憶。すべてが息づき、一続きの流れのなかにある。もとはサンスクリット語やパーリ語で書かれたものが中国語に翻訳され、それに日本語の音をあてて唱えたのがお経、それをさらに著者が現代の言葉に翻訳。柔らかな、ひらがなの川がここに幾筋も誕生した。
「お経のことばの大本にある信心という心の動きが、思考を硬化させてゆがませているようで、それがまた不可解で、不可思議で、スリリングで、目が離せなくなりまして、つい、短いのを一つ二つ現代語に訳してみたら、現代詩みたいになりました。詩というのも、意識のゆがみをことばの上に表現したものですから、当然のことなんです。」
詩人・伊藤比呂美のお経に対する批評と愛着とがまざりあった言葉だ。よくわかる。信心について考えていくと、わたしは論理的な思考とそれを飛び越えようとする情念みたいなものが闘ったあげく、思考がなぎたおされ、その先に信心がつっぱしるイメージがわく。わたしは信心がこわいのである。特別な何かにすがったり、頼りにしたり、何かを一心に信じるということをしないで生きてきた。いかにも強そうで独立的に聞こえるかもしれないが、信じるより疑うほうに習慣が傾いているのかもしれない。そんなさびしい現代人がわたしだ。むかしの人は、もっとひろびろとした、けれどどこか切迫した気もちで、お経を唱え仏を信じていたのだろうか。そんな彼らにつながりたい。伊藤比呂美訳のお経を読むと、心の内の安全装置がはずれ、決壊するような快感がわく。
誰にも、身近に死んだものがいるだろう。家族や飼っていた動物、枯らしてしまった植物。私にもいる。縁の深かった人がコロナで死んだ。死ぬような年齢ではない。ずどん、と気もちが落ちた。それからだんだんと悲しくなった。悲しみという感情は途切れるということがなく、少しずつ少しずつ人の心を浸していくものだと知った。だが一方で、死ぬときには、何が原因で悲しいのかうれしいのか腹立たしいのかなんて、わからなくなってしまいそうだなと、これはいま、死にゆく母を見ていて思う。本書を読んでも、お経の言葉が、言葉の奥のほうにあるそうした因果を溶かしてしまうような印象をもった。そうして、顔も名前も見知った特定の死者の向こうに、会ったことのない、名前も知らないたくさんの死者たちの存在を感じた。お経の言葉が呼び出したのだろうか。あたたかい。人肌の温度をもった現代語訳だ。このなかで、唯一、わたしが唱えることのできるのは般若心経だが、著者はこのお経を芝居仕立てで書いていて、出だしはまさにト書き。
(薄暮。川のほとり。階段ができている。30~40人の聴衆のいる場。川の向こうで、ブッダがめいそう中。階段の上に立って話をしているのは、かんのん。修行者であり、ぼろぼろの糞掃衣を着ている。……)
ブッダ、かんのんの他に、しゃーりぷとらという、これも修行者が登場する。かんのんが冒頭で、「わたしは共感する者であります。」と宣言する。鮮烈な出だしだが、原文のほうの冒頭には「観自在菩薩」。自在に観る菩薩ということらしい。かつて伊藤さんがその意味をたずねたところ、曹洞宗の藤田一照師は、「人々の苦を、共感する存在」と答えてくれたのだという。自由自在に「観る」ことのなかには、人の悲しみや苦しみを「感じる心」も入っているんだなあと、わたしはこんな小さなところ一つにも、心動かされて立ち止まった。本書の翻訳には、こうした細部にも、思いが入っている。時間がかかっている。手間もかけられている。人から人への心の橋渡しがある。
かんのんはこの後、一切は無だと説きながら、激しい無のダンスを踊る。これも新しいかんのんのスタイル。「目」も無い。「耳」も無い。「鼻」も無い。「舌」も無い。「皮膚」も無い。「心」も無い。無い。無い。無い。無い。無い。絶叫するしか無い。足を踏み鳴らすかんのんの、タップダンスの靴音が聞こえて来る。かんのんが踊っているのだかわたしが踊っているのだか。渦の中心には、しまいにはもう誰もいなくて、激しい言葉の靴音だけがあがっている……。
他に、驚いたのが「源信の白骨観」と「九相詩」。付随するエッセイも含めて、ぞくっとした。著者による朗読CD付きだ。耳で聴いた後に読むのもいい。