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命の大切さを教えながら自分は死にたかった教師

アラームをかけずに寝た。
それがわざとなのか無意識なのか今はもう覚えていない。
このまま一生目覚めませんように、と願って寝るのが毎日のルーティンになっていた。
アラームをかけずに寝ても必ず5:30に目が覚めてしまい絶望した。

2年前の今頃、私は小学校の先生をしていた。
大学在学中、一生懸命勉強して、やっと合格して、「こんなクラスにしたい」というたくさんの夢をもって先生になった。

教員一年目からいきなり担任をもたせてもらった。
子どもたちは無邪気で可愛かった。
物分りもいいし、何よりたくさんの先生方に助けてもらったおかげで、1年目の学級経営が思いのほか上手くいった。

2年目には運動会の表現種目を任された。
構成、ダンス、指導法を考えて全力を注いだ。
100人を超える子どもたちに表現の授業するのは容易ではなかったが、任されたことが嬉しくて楽しかった。
運動会は子どもたちのがんばりのおかげで見事大成功だった。
運動会後の飲み会では、「先生2年目なのにすごいね!」「安心して任せられるよ」と色んな先生に褒めてもらった。
完全に調子に乗っていた。

運動会が終わってから、クラスがまとまらなくなった。
なにかきっかけがあったわけではない。突然でもない。
じわじわと。
私の指示が通らなくなり、授業中の私語が多くなり、そんな毎日が繰り返された。
毎日些細なことで叱って叱って、怒鳴って怒鳴って、その度にあぁ今日は上手くいかなかったなと考えて夜は眠れなくなった。
今思えば、追いつめられたのではなく、自分で自分を追い詰めていた。

だんだんと夜眠れない日が増えた。
授業中に胃が痛くなることがあった。
日曜日の夜、ご飯を食べながら突然涙が出ることがあった。

同僚に勧められて、専門の病院を受診した。
適応障害だった。
適応障害のうつ状態と診断された。
とりあえず2週間に一回通院して、毎日睡眠導入剤と精神安定剤の薬を飲みながら仕事に行った。
病院にいくら通っても症状は快方に向かわない。

今までも仕事に行きたくないなと思うことは山ほどあった。
例えば「明日算数の授業上手くできるか不安だな」とか「参観日だから緊張するな」とか今までは行きたくない理由はそんな理由だった。
だがその時期は特に理由はなかった。
何が理由か分からなかった。
そして「行きたくない」が「死にたい」変わっていった。

2時間目の社会の時間。
授業中に突然涙が出た。
黒板に字を書きながら泣いていた。
そのことを子どもに悟られないようにしていたら、子どもたちに背を向けたまま、なかなか振り向けなかった。
私語が絶えない授業中。
黒板に「めあて」を書き終わっても背を向けたままの担任。
子どもなりに「ヤバい」というのが分かったのだろうか。
一瞬にして教室が静まり返った。

車を運転しながら、あぁこのまま田んぼに突っ込みたいなとか、校舎の窓から外を覗きながら、ここから飛び降りたいな、と考えることが増えた。
廊下に貼ってある「いのちをたいせつにしよう」と書かれたポスターからは目を逸らして歩いた。

就職して1年目は、毎週仲良しの先生たちと毎週のようにご飯に行った。
「今日こんなことがあってさ〜」と愚痴を言ったり、恋バナをしたりする時間が毎週の楽しみだった。
しかしその時期の私は「ご飯行こう」と誘われても特に理由が無いけど断った。
みんなで旅行に行くくらい仲良しだった同僚たちとの付き合いを避けるようになっていた。
愚痴を言いたいという気持ちもなくなり、なぜか「私は楽しんではいけない」という縛りがあった。

校長先生から「休んでもいいよ」と声をかけてもらうことがあった。
休めなかった。
10月に大きな研究授業を抱えていたからだ。
研究授業は全職員が私の授業を見に来る授業で、その後協議会が開かれ、今後の授業や学校全体の参考にしていくというものだ。
それまでは何があっても絶対に休めない、迷惑はかけられないと思った。

研究授業、当日。
緊張はもちろんあった。
だれが発表していたか、きちんと時間内に終わったのかなど、記憶が途切れ途切れでその時のことをきちんと覚えていない。
終わったあと、廊下ですれ違った先生から「今日の授業よかったよ、子どもたちみんなよく頑張ってたね!」と言われた言葉でほっとしたことだけ鮮明に覚えている。

放課後に今日の自分の授業について、協議会が開かれた。
よかった点もたくさん言ってもらえたと思うが、それらは覚えていない。
思い返せば、その時の私は自分を責めることが無意識の習慣となっていたので、「もっとこうしたらよかった」などという、批判の意見しか自分の中に入ってこなかった。
協議会が終わったらその後の終礼と会議も出ずに、自分の教室で泣いた。
泣き疲れて教室で座り込んでいるところに、同僚の先生たちが何人か迎えに来てくれた。
学校のことは触れずに明るい話をした。
「今度みんなでご飯行こう」と誘ってもらった。
その後、先生たちとご飯に行くことはなかった。

私は春に教員を退職し、都会に出てきてアイドルになった。
元々アイドルになりたいという夢が昔からあって、教員は2年で退職する、と校長先生に伝えていた。

今年に入ってから、何度かSNSに教え子たちからメッセージをもらうことがあった。
「先生にもう一度会いたい」
「先生が担任で楽しかったよ」
「テレビに出たら教えてください!」

表現しきれない申し訳ない気持ちでいっぱいである。

あの時のことを今もたまに思い出す。
叱ってばかりだったけど、もっと一人ひとりのいいところを見ればよかった。
もっと一人ひとりとたくさん喋ればよかった。
こうしなきゃいけない、と凝り固まっていたけどもっと力を抜けばよかった。
もっとあの子たちの前で笑っていればよかった。
あの子はちゃんと学校行ってるかな、
あの子は野球辞めたいって言ってたけどちゃんと家族に話せたかな、
あの子は給食残してばっかりだったけど野菜食べられるようになったかな、
いろんな感情が湧いてくる。
私のことを覚えていて欲しいとも、忘れて欲しいとも思わない。
ただ、私はみんなのことをずっと覚えている。
これから先、たくさんの素敵な先生や友達と出会って、大きくなってほしいと思う。

美談にするつもりはない。
私には謝っても謝っても、償いきれない時間がある。
毎日毎日死にたかった。
そう思っていた過去の時間の分まで、私自身、しっかり今を生きようと思う。
償うことはできないけれど、きっとそれが唯一、今私にできることだと思うから。

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