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眠れない夜にしかできない話をするって決めた

わたしと同じように眠れない夜を過ごしているひとに、ラジオをするみたいに話をしようと思いました。

ここのところなかなか人生の難しさを感じることが多くなり、それは、新しく社会に放り出されたものとして適正な悩みなのか、そういう年齢を迎えた登竜門的な憂いなのか。わからないけれど、なんだか急に熱を出して寝込むことが増えたことだけは確かです。

もうすぐ25歳になります。
うまくいかない日々を誰もが抱えているとは思うけれど、その誰もが朝の電車で、ビジネス街のランチタイムで、雑多な街の飲み屋の中で、それぞれにうまく事情を隠しながら、見てみぬふりをしながら、悟られぬようにしながら、あるいはうまく誤魔化しながら過ごしている姿に、励まされる時もあれば傷つくときも、寂しくなるときもあります。

眠れない夜 第一夜

記念すべき一回目の副タイトル「第一夜」。これは、わたしの好きな音楽家ヨルシカの「第一夜」という楽曲から持ってきました。
心にぽっかり空白を抱えたまま過ごしていたら、聞ける音楽と聞けない音楽、読める本と読めない本、行ける場所と行けない場所が生まれてしまったけれど、ヨルシカや米津玄師だけはずっとずっと聴けたから。長い小説を読めなくなってしまっても、短歌だけはずっと読むことができたから。そういう話を何回かに分けてしていこうと思います。

朝目が覚めて歯を磨く 散歩の前に朝ご飯
窓の向こうにふくれ雲 それを手帳に書き留めて
歌う木立を眺めます 通りすがりの風が運んだ
花の香りに少しだけ春かと思いました

ヨルシカ「第一夜」

昼は何処かで夢うつつ ふらり立ち寄る商店街
氷菓をひとつ買って行く 頬張る貴方が浮かびます
想い出ばかり描きます この詩に込めた表情は
誰にもわからなくていい いつか会いに向かいます

ヨルシカ「第一夜」

夜に花火を観ています いつか観たいな人混みで
名前も知らず呼んでいた 白い花を一輪持って
隣町から帰ります 列車の窓を少し開いて
夜がひとひら頬撫でて 風揺れる髪が靡く

ヨルシカ「第一夜」

ヨルシカの「第一夜」は朝、昼、夜と時間の経過が細かく描写されています。
この歌詞で描写されているのは何気ない日常。だけれど、その日常には明確に誰かの不在があるように感じます。
誰かと一緒に過ごした想い出をなぞっているみたい。
元々ふたりだったものがひとりに戻ったとき、日常は日常であるはずなのに、とてつもない喪失感と寂しさに満ちていくことをわたしも知っています。

全部どこかに誰かの不在の気配があって、誰かを愛した余韻がある。
何かを失ったあとも変わらず流れる日々の描写です。

モチーフとされる夏目漱石の『夢十夜』の中の一遍「第一夜」では、このように細かい時間の流れは描写されません。日が落ちて、また日が昇り、あっという間に百年が過ぎていくのです。

自分は苔の上に坐った。これから百年の間こうして待っているんだなと考えながら、腕組をして、丸い墓石を眺めていた。そのうちに、女の云った通り日が東から出た。大きな赤い日であった。それがまた女の云った通り、やがて西へ落ちた。赤いまんまでのっと落ちて行った。一つと自分は勘定した。

 しばらくするとまた唐紅の天道がのそりと上のぼって来た。そうして黙って沈んでしまった。二つとまた勘定した。

夏目漱石『夢十夜』

『夢十夜』ではむしろ、細かく描写しないことで時間の流れを凝縮して、長い長い年月待ち続けていたことを伝えます。丸い墓石にいつしか苔が繁ってゆく。百年という長さをものともせず待ち続ける男がどんな心境で過ごしていたかは描かれない。
けれどおそらく誰かを待つ日々は、淡々と、刻一刻と、静かに過ぎていくのではないでしょうか。喪失が長い時間をかけて徐々に日常の一部に溶け込んでいき、心は静かに凪いでいるけれど、待っている。

ヨルシカの「第一夜」で描かれる「日常」の描写もどこか淡々と静かなのは、喪失を抱えて、待つことにシフトしているからかもしれません。
喪失が、寂しさが、敢えて描写の上では息を潜めています。

ふいに何かに気づきます 心が酷く震えます
白百合香る道を走って やっと貴方に出会えた
そんな夢を見ました
貴方は僕に笑います ずっと待っていましたと

ヨルシカ「第一夜」

「百年待っていて下さい」と思い切った声で云った。
「百年、私の墓の傍に坐って待っていて下さい。きっと逢いに来ますから」

夏目漱石『夢十夜』

石の下から斜に自分の方へ向いて青い茎が伸びて来た。見る間に長くなってちょうど自分の胸のあたりまで来て留まった。と思うと、すらりと揺らぐ茎の頂に、心持首を傾けていた細長い一輪の蕾が、ふっくらと弁を開いた。真白な百合が鼻の先で骨に徹えるほど匂った。そこへ遥の上から、ぽたりと露が落ちたので、花は自分の重みでふらふらと動いた。自分は首を前へ出して冷たい露の滴る、白い花弁に接吻した。自分が百合から顔を離す拍子に思わず、遠い空を見たら、暁の星がたった一つ瞬いていた。

「百年はもう来ていたんだな」とこの時始めて気がついた。

夏目漱石『夢十夜』

ヨルシカの「第一夜」が、夏目漱石の『夢十夜』が、再会を描いているのか否かは、それほど大きな問題ではないとわたしは思います。

「ふいに何かに気づ」いたこと(第一夜)、
「百年はもう来ていたんだな」と気づいたこと(夢十夜)、
それがおそらく全てで。

実際に逢えたかどうかではなく、待っていたらいつか逢えた気がした。逢えたと思えた。おそらくここに「待つ」ということの全てが詰まっているとわたしは思っていて。
待つことは独りよがりな行為だから、相手によって完結するのではなく、自分の変化によって、感じ方によって完結するものだ、と。

「僕」(第一夜)や「自分」(夢十夜)が貴方に出逢えたと思っている、思えていることが全てなのだとわたしは受け取っています。

眠れない夜が明けて

深夜になると色々な物語が頭の中を駆け巡って、眠れないわたしを支えてくれます。今日はその一つをお話ししました。
最初の記事にヨルシカ「第一夜」、夏目漱石『夢十夜』を選んだのは、作中の淡々とした時間の経過にわたしも救われてきたところがあるからです。
誰かを待つことや、待ってしまう日々は、とても寂しいし、日々は長く果てしなく思えます。かといって、朝が来ても寂しい日々を繰り返すだけで、もういっそ夜のままであってくれたらと願うときもあります。
明けない夜でいいよ、と思いながら、それでも明けてしまう日々こそ淡々と穏やかに歩めたら、百合の花が咲くことにいつか気づくことができるかもしれない。
待ってばかりの人生です。でも、それを完結させるのも自分自身なんだとわたしは信じています。

そういう願いを込めて、いまこの記事を始めようと思いました。
また更新します。
眠れない夜を過ごす誰かに届いたらうれしいです。

朝いそこ


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