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かんぺきな綻び/売野機子「かんぺきな街」


売野機子とは全く関係ないのだけれど、私は村上春樹の小説に出てくる「おれが考えた最強のメンヘラ」系の人物がとても好きだ。「ノルウェイの森」の主人公や「海辺のカフカ」の田村カフカくんなり、彼の作品に登場する男はおおよそ良い意味で狂っている。日頃からかれらと触れ合いたいとは思わないが、ある一定層にとってはクセになる「やばさ」を持っていると思う。たまらない。

売野機子の作品にも、どことなくこの「やばさ」が漂っていると思う。

売野機子の作品は、兎にも角にもやばい。とくにこの「かんぺきな街」は。

では、どこがどうやばいのか。


①キャラクター性

好きな男(先生)への別れの言葉が、「私のこと、野良犬だと思って」の中学生女子。それが違和感なく成立するのが売野機子。やばい。まず台詞がやばい。対面では愛して、いなくなったら忘れて良いけど、時々思い出して。ってことでしょう?てんさいじゃん。

作品に登場するキャラクター、一人残らず思想が見える。信念が見える。みんなまともに狂ってる。この「ブレなさ」を象徴するのが、件の中学生女子の台詞。みんなそれぞれの「かんぺき」の中で生きていて、それが傍から見たら狂っているように見える。自分の普通は誰かの異常ってやつだ。


②愛しかない

「好きな人と明るい窓辺でアイスキャンディを食べたい」

愛じゃん。これが愛ですよ。「ルポルタージュ」でも思ったのだけど、売野機子は愛を信じているし、私は売野機子の愛の形を愛おしく感じる。その人自身が好き、好きな理由は説明できないけど、くらいの距離感がちょうどいい。ロマンチックLOVE…


③漂う異国感

どことなく異国(それもたぶんヨーロッパ)の香りがするっていうのも、「売野機子らしさ」のひとつなのだと思う。大正ロマンではないけれど、そういったある種の「懐かしさ」を惹き起こすほどの異国感。「BANANA FISH」あたりの時代の雰囲気を持っていながらも、やはりどこまでも現代風。そこには売野機子が持っている思想が間違いなく影響しているのだと思うが、それについては触れない。作品を読んで、と言っていたので。

かつ、この異国感がキャラクターの(良い意味での)歪みを曖昧にしてしまう。作品に通底する異国感が、「あのキャラクター変だな、なんか物語に入っていけない」と読者に思わせないための装置なのかもしれない。


結論、売野機子はてんさいだ。

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