ドクメンタ15 地球をいくつか並べてみる
⑤
カッセルという街へ行ってきました。
ドクメンタを見るために。
先の戦争の時代に現在を失ってしまったこの国で、常に「芸術が今を語ることの意味」を問い続けてきたドクメンタ。
2022年の今日、芸術の名において語るべきこと、ってなんでしょう。
ドクメンタ15の最初の公式声明で、総合ディレクターのアーティスト集団ルアンルパは次のように言っています。
(一部抜き出し)
平たく言えば、持続可能な国際的知的財産の共同基盤を作りたい、そして、社会の格差構造上にある異なる立場から見た世界を並べて見せてみようと思う、ということです。
そうだとしても、やっぱり少しひっかかるのは「傷」というワード。
あらゆる異なる立場に立つ人たちのより良い共存のために、それらの視点を並べ合わせ、お互いに学び合うことが必要です。しかし視点はつねに経験の集積によって形作られ、経験とはなにも楽しいものばかりではなく、過去の傷をも含みます。
ときに傷は、もう二度と同じ痛みを繰り返さないために、その身体に刻まれます。が、同時に、傷に触れるということは耐えがたい痛みを伴う場合もあるでしょう。
ドクメンタ15はドイツという国の持つ決して消えない傷に触れ、社会的に大きな非難の嵐を巻き起こすことになります。
展示されたいくつかの作品が「反ユダヤ的である」と受け止められたためです。それはこの国の政治的根幹にかかわる問題でした。
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かつてこの国の人たちは、自分たちの血統の優性を信じ、劣性は排除すべき、という思想をもって、特定の人種の人たちを大量に虐殺した事実があります。
そのうちのひとつは、ホロコーストと呼ばれるユダヤ人を主な対象とした組織的な大量虐殺でした。
そして、その歴史の一端は、ひとつの国の建国へとつながっています。
それがイスラエルです。
イスラエルは現在その基本憲法において、自らを「ユダヤ人の国民国家である」と定義していますが、それにならえば、イスラエルは長い迫害の歴史と虐殺の果てに建てられたユダヤ人の国と言えます。
戦後、ドイツはイスラエルに対して国家としての歩み寄りを続け、現在ではイスラエルに住む約3分の2以上のユダヤ人が、ドイツという国に対してとても良い印象を持っている、という回答が得られるまでになりました。が、もちろんその歩み寄りに決して終わりはありません。
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今回、非難の的となった作品の一部には、反ユダヤ的、つまりユダヤ人を否定するような表現が含まれており、戦後ドイツという国の歩んできた政治的な歩み寄りを根本から否定するものとして、社会的に大きな嫌悪感を呼び、最終的に運営側と作家は謝罪、作品の一部は撤去される事態に発展します。
この事件に対して、この国の大統領や首相をはじめとしたさまざまな人たちが、ユダヤ人を否定することは絶対に許さない、とコメントをし、国としての正しさを突きつけたことは、良くも悪くもドクメンタが生まれた起源を思い返させるものでした。
現在のドイツにおいて、ホロコーストはタブーではなく、むしろ語るべきこと、とされていますが、逆にホロコーストやユダヤ人を否定することは社会的なタブーと言えます。
しかし人がタブーを無批判に受け入れ、一面的な世界の正義を振りかざす時、ルアンルパが仕掛けたドクメンタ15の全体は、ゆっくり作動し始めます。
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ひとつの作品がありました。非難の末に撤去されたものではなく、その過熱した報道の裏で比較的ひそやかに、しかし、著しく問題あり、とされた作品です。
それはイスラエルにまつわる映像作品、
タイトルは「東京リール Tokyo Reels」。
その作品はスイスと西ヨルダンを拠点とし、主に歴史の中で抹消されてしまった記録映像をアーカイブし、研究・復元を経て再び世に問う活動を続けているコレクティブによって出品された映像作品です。原型となった記録フィルムが発見された場所として、「東京」の名がそのタイトルに冠せられていました。
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1982年にユダヤ人の国であるイスラエルの軍隊がレバノンの首都であるベイルートを占領すると、周辺地域における実験的で先鋭的な映像作品は軍に没収され、表現活動は規制されます。そしてまた地球上でこれまでに幾度となく繰り返されてきたように、国家によって大量虐殺が行われ、数えきれないほどたくさんの市民が亡くなっています。
1970年代当時の生々しい現地の様子が撮影された貴重な映像フィルムは没収されたのち、軍の機密倉庫に保管されているとも、戦火の中で紛失したとも言われていましたが、40年以上の時を経て、ある協力者によって無事であることが確認されます。
知らせを受けたコレクティブが向かった先は東京。それらを大切に保管していたのは、1972年に26名の死者を含む、およそ100名の死傷者を出したイスラエルの空港での悲惨な銃乱射テロ事件、その実行犯であった3人の日本人テロリストと活動を共にしていた日本赤軍の元メンバー、かつて国際指名手配をうけていた男でした。
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街の東のはずれにあった廃工場のような展示場をずっと進んだ奥の部屋、小ぶりの体育館程度の大きさの暗いホールの真ん中に、ゆうに幅7-8メートルはありそうな大きなスクリーンが部屋をふたつに切り分けるようにして、床から先の見えない天井に向かって立ちあがっていました。スクリーンの手前には簡素なひな壇がしつらえてあって、ちょっとした小劇場のようになっています。
大きなスクリーンには中東の映像が流れていました。粗いフィルムの質感はそれが古い記録であることを感じさせますが、画面のテロップや音声など、キメの細かい丁寧な編集で、当時の中東の凄惨な状況、飛び交う怒号と兵士たち、怪我人、難民、戦時下で暮らす多くの人々の姿をありありと伝えていました。
スクリーンから少し離れた部屋の脇には背丈ほどの高さの木箱がふたつ、その囲いの中にもモニターが設置され、メインスクリーンとはまた違う別の映像が流れています。暗闇の中で明るく浮かび上がる画面、ふいに耳に刺さる聞きなれた言語、流れてきたのは軽快な口調の日本語でした。
それは1970年代後半の日本で実際に放映されていた朝の人気情報番組でした。
きれいにめかしこんだ男女二人のアナウンサーが、端正な笑顔で海の向こうの遠い国の戦争の状況をお茶の間に届けています。
画面が華やかなスタジオの様子から、収録された映像に切り替わり、現地の様子が流れ出します。破壊された家々が映し出され、全面が砂埃で灰がかった淡い黄土色に染められていました。現地の様子を伝えるナレーションが入ります。どうやら日本人レポーターとカメラマンが通訳を連れてこれから向かうのは、戦争孤児を集めた施設のようです。
カメラがレポーターを追いながら、施設の敷地へ入っていきます。小さな宿舎のような建物の手前にはこじんまりとした運動場があり、いくつかの遊具が置かれていました。画面に収まりきらないほどの大勢の子供たちは元気に遊びまわっていましたが、レポーターたちを見つけるや否や、みなカメラの前に走り寄っては群がって、ふざけ合いながら押すな押すなの大騒ぎです。
そんな子供たちにマイクを向けたレポーターは開口一番、「お父さんお母さんはどこで何をしているの?」と問いかけます。
子供たちは、なんだかわかっているんだかわかっていないんだかよくわからないような顔をして「戦争で死んだ」と答えます。
レポーターは実に残念そうな口ぶりで「そっかー」とだけ言い、すぐに次の子供にマイクを向けました。
通訳を通じたいくつかのやりとりの後に、画面は再びスタジオに戻ってきますが、さきほどの男女の司会のうち、女性の姿が見えません。番組も終わりに近づいてきたようで、男性が元気よく、視聴者の方々へのプレゼントのお知らせを伝えます。さきほどのVTRに映っていた戦地から持ち帰ってきたお土産です。
いくつかの手作りの小物の民族工芸を紹介した後で、男性はおもむろに「そして今回はたった一名様に豪華なプレゼントを用意しています!」と叫び、その掛け声とともに、さきほどの女性キャスターが現地の民族衣装を全身にまとって再び画面に登場しました。スタジオの男性陣のどよめきと、照れてはにかんだ女性キャスターの笑顔が画面いっぱいに映し出されます。
その民族衣装はたしかに大変美しく、色とりどりの糸を手で紡いで丁寧に一針一針縫い上げたであろう絢爛な刺繍が全面に施されていました。
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実際のところ、私はそれほど暗い気持ちでそれらを眺めていたわけではありませんでした。またその作品には、人の気持ちを逆なでするような意図は私には感じられませんでした。
それはただドクメンタ15に集められたほかの作品と同様に、数多く並べられたたくさんの世界の見方のひとつであり、時にそれらは幸せや不幸の顔をしていて、見る角度によっては、美しく、または醜く見えたりもします。
なにより、丁寧な映像編集だけでなく、空間全体の細やかな演出を含めて、その空間にはある種の清廉さがあり、ものを伝えようとする誠意が感じられました。それに対して自分の中でひとつ確かであったのは、良いとか悪いとかではなくただ、観ることができてよかった、という、内に響く思いでした。
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グローブとは私たちが住むこの地球のことで、グローバルとは地球規模の、という意味ですが、世界中の人々が各々の立場からグローバルを叫ぶことができるようになった現在、本来ひとつだったはずのグローバルという言葉の意味はずいぶんと多重的になりました。
ドクメンタ15では、世界の異なる地点から見えるそれぞれのグローバルが、カッセルの街中に散らばりながらも丁寧に並べられて響き合っていました。
それは住む国や地域や世代や収入や教育や性別や時代の違いによって、美しさの意味は異なることを示しており、そしてそれは会場全体を通して、決して一方向的な見方を促すものではなく、また単体で語られるべきものでもなく、さまざまな見方の中で、国と国とを行き来し、グローバルノースとサウスを行き来し、そして自分と他者とを行き来しながら、二項対立では図れない新たな知見の場を生み出していました。