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酔いから覚めて愛を歌う -チャップリンについての随想


 
 
【木曜日は映画の日】
 

映画史の中で、チャップリンは、現在でもその作品が多くの新しいファンの心を掴んでいるスターです。


「放浪紳士」チャップリン



彼はいわゆるサイレント映画時代、映画草創期からの一大ヒットメイカーです。と同時に、音声付きのトーキー映画に対応できた、数少ないスター兼映画作家でもあります。
 
彼のライバルだったコメディ映画のスター、バスター・キートンや、ハロルド・ロイドの作品は、トーキー以降、質も量もかなり厳しい状態になりました。
 
それに比べると、トーキーでも代表作『独裁者』や、問題作『殺人狂時代』やしみじみとした名作『ライムライト』を残せたチャップリンは、幸福な映画作家の一人でしょう。




ローレル&ハーディ等も含めたサイレントの喜劇映画と比べると、実はチャップリンの映画は変わった特徴を持っています。

おそらくはその特徴が、彼の映画をトーキー映画、そして現代までに残る作品にしたように思えるのです。




チャールズ・チャップリンは1889年、イギリス、ロンドン生まれ。両親はミュージック・ホールの芸人でした。ローティーンの頃から舞台に立ち、巡業に出ては観客の笑いをとっていました。


チャールズ・チャップリン(1920年)
『キッド』撮影の頃


パントマイム芸人として知名度が上がり、1913年、アメリカ巡業中に、映画会社と契約を結ぶことに。マックス・セネットらの短編喜劇映画に大量に出演。人気も急上昇し、主演短編を自ら監督するようになります。
 
格好も、ちょび髭に、山高帽とステッキ、だぶだぶのズボンと靴というスタイルを確立。

そして名作『キッド』(1921年)で、長編映画の製作・監督・主演を務め、大ヒット。以降綺羅星のような名作を創っていくことになります。


『キッド』




チャップリンの映画で印象的なのは、何といっても「ラスト」です。
 
『独裁者』の演説は勿論のこと、『街の灯』の、あの削ぎ落された素晴らしいラストは、多くの人の心に残るでしょう。
 
『キッド』や『ライムライト』、『モダン・タイムス』と、一度観れば、ラストシーンを容易に思い出せる人は多いはずです。


『街の灯』




実はこの「ラストが一番印象的」というのはコメディとしては案外珍しいタイプです。
 
基本的にサイレント映画のコメディというのは、ギャグの連続です。途中で大笑いして、ラストは取り敢えずの締めのようなもの。
 
映画草創期の人たちは、ほぼ全員、映画製作の前に、舞台で経験を積んだ人たちです。

コメディアンの舞台においては、大事なのは舞台が温まって笑いを取る中盤。ラストはちょっと、こじゃれた感じでお開きにすれば、拍手喝采になる。そういう感覚が残っているように思えます。

 

『ライムライト』


勿論、チャップリンも舞台芸人出身であり、彼の映画はギャグ場面の連続によってできています。しかし、ラストに大きなカタルシスが待っているという構造は、喜劇と別物に感じます。
 
明らかにラストが最も印象的になるように、物語の構造もラストのイメージも、しっかりデザインされているように見えるのです。




チャップリンは、日本では当初「アルコール先生」と呼ばれていました。そのふらふらと歩く様が、酔っ払いのように感じられたからでしょう。
 
このネーミングは意外とチャップリンの本質をついているように思えます。というのも、彼の作品においては、素面であっても、どこか意識を喪失して、ふらふらしているような場面が、ギャグになっているからです。
 
『モダン・タイムス』の有名な歯車に巻き込まれる場面は、工場の単純作業で精神的に参っている場面ですし、『黄金狂時代』の「靴紐のスパゲティ」は、山小屋で寒さと飢えによって幻覚を見ている場面でした。


『モダン・タイムス』


 
本人にとっては深刻な心神喪失状態も、他人から見れば何ともおかしな状態に見えます。
 
意識だけでなく、アイデンティティを喪失することもあります(『独裁者』でヒトラーに間違われる床屋のように)。そこでなぜか、おかしみが生まれてしまうことこそが、彼のギャグの精髄でした。




そんな自分を見失った心神喪失状態がラストで解消されて、「真実」を取り戻すというのが、チャップリン映画の構造です。それこそが、観客の涙を誘うカタルシスになっていました。




例えば『街の灯』は、目の見えない花売り娘に、富豪と間違われた文無し男の物語です。

それだけでなく、映画が進むに連れて、お金を工面しようとボクサーになったり、強盗に間違われたりと、どんどんアイデンティティ不明になって、放浪します。


『街の灯』


そしてあのラストが美しいのは、そんな彼が「本当は何者であるか」を、娘と観客が知るからです。
 
『独裁者』や、『殺人狂時代』のラストも、主人公が悪夢のような状況から覚め、自分のアイデンティティを、自らの口で発するからこそカタルシスがあると言えます。


『殺人狂時代』




なぜ彼のギャグは「心神喪失状態」を取り上げるのか。そこに、両親の影響を見る人は多いです。
 
チャップリンの父親は、譫妄状態を伴う深刻なアルコール依存症で、チャップリンが12歳の時に肝硬変で亡くなっています。

母親は貧困により精神を病み、精神病院の入退院を繰り返しました。最後は退院して息子の近くで穏やかに過ごせたものの、症状は全快することなく1928年に亡くなっています。
 
様々な原因の悪酔いによって、自分が何者かも分からなくなってしまった人を、チャップリン自身が演じてギャグにすることで、人々を笑わせる。

それは、場末の芸人だった父や、売れない舞台女優だった母への、精一杯の手向けであるようにも思えます。




そして、そんな風に、自分を見失ってしまった両親を、フィクションの中だけでも、最後に救うこと。酔いから覚め、本当の自分を知り、人との繋がり、つまりは「愛」を認識するということ。
 
『独裁者』で、ラストに「ハンナ! 聞こえるかい!」とチャップリンが呼び掛けるヒロインの名前は、母親と同じです。

それは、もういない母に向かって、自分が何者なのか、何を望んでいるかを確かに告げる、伝えられなかった愛の言葉と言えるでしょう。


『独裁者』




チャップリンが聖人君子だったと言うつもりはありません。ここでは特に書きませんが、プライベートでは様々な問題を抱えた人でもありました。
 
それでも、彼が映画で残したものは、愛以外の何物でもなかったと思っています。それは、自分は何者かを知り、愛を確かめる過程の映画です。
 
人は自分を見失い、取り戻す時、本当の愛にも気づく。そんな再生の物語でもあります。

人が愛を求め続ける生き物であるからこそ、チャップリンの映画は、これからも人々の心の中に、大切なものとして残っていくことでしょう。


『モダン・タイムス』



今回はここまで。
お読みいただきありがとうございます。
今日も明日も
読んでくださった皆さんにとって
善い一日でありますように。
次回のエッセイでまたお会いしましょう。


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