無垢と共に歩む -名作映画『バルタザールどこへゆく』の魅力
【木曜日は映画の日】
物語には象徴というものが出てきます。それは基本的には、ドラマを直接動かすことは無くても、物語を彩り、意味を重ねて、深みを与える存在です。
フランスの映画監督ロベール・ブレッソンの1966年の名作『バルタザールどこへゆく』は、かなりユニークな象徴の使い方をした、変わった映画です。
こんな使われ方はあまりないので、物語を創る人には、参考になるかもしれない。ここでの対象は「ロバ」です。物語でのその扱い方が絶妙なのです。
フランス・ピレネー地方の農村。農場主の息子の少年ジャックと学校の校長の娘マリーは大変仲が良く、ロバの子供にバルタザールと名前を付けて可愛がります。
やがてジャックは家族と共に村を離れ、バルタザールはマリーの元に引き取られて成長します。
時が経ち、農村に戻ったジャックは、マリーと再会します。
ジャックはマリーを愛していますが、マリーはそうではない。やがてマリーは、村の不良グループのリーダー、ジェラールに誘惑されて、堕落していきます。。。
この映画の原題は『Au Hazard Barthazar』、つまり『あてどなく、バルタザール』という、美しい韻を踏んだもの(邦題はなかなか良い題だと思います)。その原題通り、バルタザールが偶然、行き当たりばったりに場所を変えていきます。
バルタザールは、仲が良かったジャックとマリーと共に、幸福な幼年時代を過ごします。
そして、マリーの家に引き取られ、マリーと強い絆を結ぶ。マリーが夜の庭園でバルタザールに花冠をかけるところは、ある種の結婚のような、神秘的な繋がりを感じさせます。
それゆえ、彼女が堕落すると同時に、バルタザールは売られ、雇い主たちにたらい回しにされて虐待され、衰弱していくことになるのです。
紀伊国屋書店の旧DVD収録の、映画研究者堀潤之氏の解説によると、この物語の発端は、ロバの頭の造形の美しさだったとのこと。ロバは聖書に何度も登場しては聖母子を助けます。そして、ブレッソンは着想源の一つに、ヴァトーの絵画『ジル』を挙げています。
どこか寂し気な表情の道化師の傍に佇むロバ。その道化師の表情とリンクして、愚鈍であるように見えて、繊細で、全てを見通す知的な雰囲気もある存在。
そんな風に、人間と着かず離れず過ごして、その行く末を見守る無垢な存在として、バルタザールはあるのでしょう。
面白いのは、バルタザールは、とある人物のところに引き取られたとき、恢復を見せることです。
この人物はお金もない酔っ払いで、愚鈍で騙されやすく、飲んでバルタザールを殴ったりするものの、無欲で、どこか憎めない愛嬌があります。
幼少期のマリーとは違った、「無垢」のある種の複雑さを体現していると言えるかもしれません。彼との結びつきによって、バルタザールは、その生命力を取り戻すのです。
監督のブレッソン自身は、この映画について「私は象徴を避けています。私の作品に象徴があるとすれば、それをもたらしたのは私ではありません」と言っており、例えば「バルタザールは、人間の罪を背負って死ぬイエス・キリストの象徴である」といった解釈を明確に否定しています。
おそらくそれは正しいのでしょう。つまり、ここでのバルタザールは、様々な寓意を含みつつ、自分もまた積極的に動きづづける存在です。
この作品に出てくる「雇い主」たちのある種の鏡となり、彼らの心性、欲望や偏見、悪徳を乱反射させます。それにより、彼自身の状態や境遇も変わってくる。
バルタザールの行動のある部分は象徴的(花冠や「羊」等)になり、ある部分は象徴から離れる。
ある時はドラマの本筋に絡み、ある時は、人物たちの堕落や悪行をただ見守るだけ。バルタザールとマリーの、両方に等しく比重が置かれ、物語は繊細に組み立てられています(脚本にはかなり苦労したそうです)。
そうした繊細さによって、ここでのロバは、豊かに意味が膨らんで重層的になって、かつ謎めいた存在になっています。
それこそが、ある種の「無垢」であると言えるのかもしれません。こんな複雑な「象徴」の作り方は、意外とない気がします。
マリーの堕落と、バルタザールの彷徨の末に両者は何を見出すのか。それは、是非ご覧になって確かめていただければと思います。
ブレッソンの映画を始めて観る人は、その厳格なフレームと、無表情で棒読みのような早口の抑揚のない喋りに驚くでしょう。
ブレッソンは出演者を俳優と言わずに「モデル」と言います。
ブレッソンは「モデル」には内面の演技を求めません。なぜなら、私たちは普段、習慣によって、ありきたりな喋りや抑揚に馴らされてしまっているからです。
それゆえ、彼は職業俳優を使いません(この作品でも撮影当時俳優だった人は一人もいません)。更に「モデル」から自然でありきたりな演技を消すために、何十回も同じ台詞を言わせて、偽りの抑揚を消し去ります。
普通の劇映画の演技に慣れていると、棒読みに聴こえるかもしれません。しかし、良く聞けば、その息せき切ったスピード、抑えられたモノトーンは、宗教の典礼文の朗唱のように力強く美しく感じられます。決して素人の棒読みではありません。
その声に乗って、一見無表情な人物たちは「自然な」表情ではない、それぞれの顔の、造形の美しさを見せる。
つまりは、ブレッソンは、演技においても、人物のありきたりな行動の下にある、様々に姿を変える「無垢」を取り出そうとしたと言えるかもしれません。
ブレッソンの映画は、基本的には、無垢な人物が、罪と悪徳に染まって、堕ちていく映画と言えます。
中期の『スリ』(1959)あたりまでは、ある種の救済のようなものが見え隠れしたのですが、『バルタザールどこへゆく』以降は、どんどん暗い破滅へと主人公は追い込まれていきます。
若者たちの虚無的な日常と、その末の悲劇を描く『たぶん悪魔が』(1977)、そして偽札が「あてどなく偶然に」流通して、そこから「悪」が容赦なく貧しい者に襲い掛かる遺作の『ラルジャン』(1983)は、全てを凍りつかせる、極北の映画です。
しかし、それは決して、気を滅入らせる映画ではないと思います。
なぜなら、破滅の過程において、ある種の無垢が存在すること、その無垢を、台詞のトーンや、絵画のように美しい構図といった美的な感覚によって、観客は味わうことができるからです。
それゆえに、私たちの中にどんな「無垢」が残されているのか、それを踏まえて自分はどう生きるのか、という一つの問いかけにもなっているのでしょう。『バルタザールどこへゆく』もまた、そんな映画の一つなのです。
今回はここまで。
お読みいただきありがとうございます。
今日も明日も
読んでくださった皆さんにとって
善い一日でありますように。
次回のエッセイや作品で
またお会いしましょう。
こちらでは、文学・音楽・絵画・映画といった芸術に関するエッセイや批評、創作を、日々更新しています。過去の記事は、各マガジンからご覧いただけます。
楽しんでいただけましたら、スキ及びフォローをしていただけますと幸いです。大変励みになります。