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愛する存在を書くために -バルトによるミシュレの美しさ
【水曜日は文学の日】
誰かについて書く時、どうやって書けばいいか、悩むことがあります。
表面的なその人生の事件や、業績について説明することは必要なことです。しかし、それだけでは、その人全てを書けるとは到底思えない。
実はこういう性格の人で、周りにはこう思われていた、という説明も勿論よいことです。しかし、それだけでは、何かが抜け落ちている気がする。
何というか、その人が生きていた「核」のようなものがあって、それを掴むことこそが、最も大切なことのように思えるのです。
フランスの哲学者ロラン・バルトによる『ミシュレ』は、フランスの偉大な歴史家ミシュレについて書いた本であり、そうした「核」の掴み方に、ヒントを与えてくれるような本です。
ロラン・バルトは、1915年生まれ。大学で古典ギリシア文学を研究するも、結核を発症。サナトリウムで療養しています。
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その後哲学の論文を雑誌に発表して、批評家デビュー。ルーマニアやエジプトに大学の講師として招かれたりしつつ、1953年、それまでに発表した文章を加筆訂正して『零度のエクリチュール』を出版。
「作者の死」という刺激的なテーゼで話題になり、批評家・哲学者としての地位を確立します。『ミシュレ』は、1954年、二冊目の著作です。
『ミシュレ』は、フランスのスイユ社の作家業書の一冊として依頼された本です。それゆえ、ある種の思想家紹介本として、独特な形式になっています。
まず序文で、これはミシュレの思想史でも、生活史でもないと、宣言されます。
まず、この男に一貫性をもどしてやらねばいけない。
(中略)すなわち、ひとつの存在(ひとつの人生ではなく)の、構造を、つまりテーマ体系を、あるいはこう言ったほうがよければ、固定観念によって編まれた網を、見つけ出すのである。
そして、「メモ」として、簡単にミシュレの年譜と生涯、著作が纏められた後、ミシュレの「存在」とは何なのか、がバルトによって説明されます。その章のタイトルは、『歴史を食う人、ミシュレ』
ミシュレは眩暈と嘔吐と偏頭痛を抱えていました。そこから蘇るようにして、執筆と創造を繰り返しています。その際「歴史」というものを捕食して、養分として生きたとバルトは書きます。
「食べる」とは何かというと、歴史の中を歩き回り、もぐりこみ、俯瞰しつつ、幸福と不幸を味わいながらその中を生きて、書くこと。それが、ミシュレという「存在」だというのです。
これは、非常に不思議な定義です。
ジュール・ミシュレは、19世紀のフランスの歴史家で、『フランス革命史』や『フランス史』等、熱狂的な記述と、広範囲にわたる歴史研究、自由主義への熱烈な賛辞で、フランスの国民的な歴史家と見なされていました。
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それが、「歴史を食う人」というバルトの定義により、そういう表面的な思想の下にある、ミシュレの行動や思考のパターンが提示されます。
そして、この定義を証明していくかのように、断章形式で「テーマ体系」が語られていきます。
まずバルトが、ミシュレの著作に頻出するテーマを説明します。例えば次のように。
ミシュレにとって、オランダ舟は理想の場だ。この凹状をなしていっぱいつまった物体、(中略)海水というなめらかなものの中に宙づりになった、この一種の堅固な卵、これは均質なるものの甘美なイメージだ。
それは、ミシュレが提起したミシュレ的な大いなるテーマ、継ぎ目のない世界というテーマなのだ。
この「オランダ舟」というキーワードから、ミシュレの歴史書に反復される、滑らかさ、均質性、統合や移行といった概念が、どのように組み合わされているかが書かれます。
そして、その証拠として、その後にミシュレの著作が引用されます。この反復により、ミシュレの著作の「テーマ」と構造、そこから浮かび上がるミシュレの「存在」が描かれていくのです。
こうした書き方は、現代思想では「テーマ批評」と呼ばれています。
その難解な方法をここで説明するのは難しいのですが、バルトがミシュレに対して行ったこの本の中に、その方法論が美しく芽生えていると言っていいでしょう。
この「テーマ批評」は、ジャン・ピエール・リシャールの『フロベールにおけるフォルムの創造』や、日本では、蓮實重彦の『映画の詩学』や『夏目漱石論』等の映画・文芸批評で、大々的に展開されました。
フロベールを「たらふく食う人」と定義したり、夏目漱石の「水と花」の結びつきを論じたりと、従来の作品のイメージを覆す、今読んでもかなり刺激的な批評書です。未読の方は、是非読んでいただければと思います。
バルトはその蓮實氏のインタビューで、『ミシュレ』を愛着ある本の一つとして挙げています。元々彼はミシュレを愛読し、療養中から10年近く取り組み、膨大な量の著作を読みながら、メモをカードに書きとめていました。
ここに、『ミシュレ』の得難い美しさも見えてくるように思えます。つまり、バルトのミシュレに対する愛が感じられるのです。
ミシュレのことを書いていくうちに、バルト自身のことを書いているような瞬間が現れます。先に書いたある種の滑らかさは、バルトの著作にも見出せるものです。
石川美子の名著『ロラン・バルト』(中公新書)で、氏はこう書いています。
身体からにじみでるものである「テーマ」は、ミシュレの「エクリチュール」ではなく、むしろ身体的な「文体」のなかにあると言える。
それゆえこの本は、ミシュレの身体感覚や意識に溶け込もうとする幸福感にみちている。
テーマというものは、表面的な題材や文章の奥にある、身体的な感覚(嘔吐や偏頭痛のような)であって、そこに共鳴することで、その対象に溶け込んでいく。それこそが愛であるように思えます。
それは、書く時だけでなく、私たちが誰かを愛する時も同じでしょう。
私たちは、その人の容姿や思想、地位や年収だけで誰かを愛して、一緒に暮らしたり、結婚したりするわけではない。
いやまあ、そういう場合もありますが、それだけではなくて、一緒にいる際に、お互いを尊重できて、お互いが何か居心地がいいと感じられるからこそ、その人を愛するのだと思います。
それはつまり、その人の表面ではない「存在」そのものに共鳴しているのでしょう。
相手の「存在」を掴み、その人の「テーマ」という行動パターンを理解して、自分の中に共鳴する要素を見出して、共に寄り添う。それが、書くことだけでない、生きることの中の「愛」でもあるのでしょう。
バルトの著作スタイルは、断章形式で、エッセイ的に哲学的な文章を重ねていく、美しく、しかも明晰なものです。
有名なのは、日本滞在時の印象や、その文化を使用したエッセイ『象徴の帝国』でしょう。その他、恋愛がテーマの『恋愛のディスクール・断章』や、写真を取り上げた『明るい部屋』等、邦訳のある名著も多いです。
彼の書き方は私がエッセイを書く時の参考にもなっています。
作品だけでなく作者の存在とテーマを掴むこと。そこに愛を持って、自分と共鳴すること、それは、誰かを愛して生きることと似ていると思っていますし、それゆえに、私は書き続けているのかもしれません。
今回はここまで。
お読みいただきありがとうございます。
今日も明日も
読んでくださった皆さんにとって
善い一日でありますように。
次回のエッセイでまたお会いしましょう。
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