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歴史の蝶がまどろむ -ゼーバルトの傑作小説『移民たち』について


歴史を感じるには、ノンフィクションを読むだけではありません。フィクションでも、歴史の大きなうねりを感じることができます。
 
英雄や歴史上有名な人物を主人公とするのではなく、無名の架空の人物を使うこともできます。決してその人物の日常に終始するのでなく、背後に大きな歴史のうねりを体感させることが大切です。
 
W・G・ゼーバルトの小説『移民たち 四つの長い物語』は、まさにそんなフィクションによる「歴史の体感」を味合わせてくれる逸品です。



 
ゼーバルトは、1944年、ドイツ生まれ。文学部の大学教授を経て、小説やエッセイを書き始め、1990年、カフカやスタンダールを取り上げたフィクションともエッセイともつかない散文集『目眩まし』で、注目を集めます。

ゼーバルト


 
『移民たち』は、そんな彼の短編集。多くの文学賞を受賞し、その後も『アウステルリッツ』等の名作を残し、ノーベル文学賞候補とも言われました。しかし、2001年、自動車の運転中に、卒中の発作を起こし、57歳の若さで事故死してしまいます。
 
『移民たち 四つの長い物語』は、副題の通り、四つの作品から成り立っています。長い物語といいますが、ほぼ短編集と考えてよいと思います。どれもが、第二次大戦を体験した「移民」の男を主人公にした短編です。

そして、どれもが違った味の、絶品の美しさと面白さなのです。




 
 
最初の短編、『ドクター・ヘンリー・セルウィン』は、リトアニア移民でイギリスに暮らす医師セルウィンの元に、「私」が訪れて、半生を尋ねます。最初の作品だけあって、短く、凝縮された静謐な対話です。

そして特筆すべきは、この作品の「オチ」。非常に巧みであると同時に、この本全体の主題にうまく結びついています。短編アンソロジーに入りそうなくらい綺麗にまとまって、完成度の高い一編です。




 
二番目の短編は、『パウル・ベライダー』。「私」の元に、鉄道自殺をしたドイツの片田舎の小学校教師の訃報が届きます。彼の知り合いの女性に取材して、彼の生涯を紐解いていく短編です。

ナチス時代を生き延びた人々の苦しみが伝わる、最も陰鬱な一編と言っていいでしょう。自殺について語る女性の、最後の言葉が印象に残ります。




 
ここまでで、全体の四分の一ぐらい。大変読みやすく、深い感動を覚えたところで、とんでもない作品がやってきます。それが、三番目の短編『アンブロース・アーデルヴァルト』です。
 
最も異様な一編であり、驚く他ない作品です。これは「私」の、伝説的な叔父アンブロースの破滅的な生涯をたどる短編です。

叔父は、ホテルボーイになった後、執事として富豪のどら息子に仕えてカジノを渡り歩き、戦争に翻弄されながら世界中を放浪します。そのめくるめく行程が、親戚の老人たちの証言や、叔父の手記を交錯させて、恐ろしいスピードで語られます。
 
熱と狂気にうなされながら、スイス、ニューヨークのロングアイランドから、日本、コンスタンティノープル、レバノンまで、叔父はほぼ世界を一周します。モスクの美しい少年や、砂漠の巡礼等、幻のような光景が読者の目の前を次々と過ぎ去っていきます。

紀行文学を模したフィクションのはずなのに、スピード感があり過ぎ、凝縮しすぎて、ほぼ幻想文学の域に達しているのです。



 
最後の短編『マックス・アウラッハ』は、最後の三分の一ほどを占める、中編のような作品。「私」がマンチェスターに住む友人のドイツ人画家の半生を本人から聞く作品です。

「私」が旅をするエッセイ的な部分が一番多く、後に『アウステルリッツ』で開花するこの作家の特徴が一番色濃く出ている一編と言えます。




 
ゼーバルトの小説の特異な点は、写真が大量にあることでしょう。それは本文の補足説明的なものであり、先生や叔父の肖像写真が本文に添えられています。

しかし、よく考えると変です。これは、フィクションのはずです。しかし、写真は現実。いったい、写真に映っているのは「本当は」誰でしょうか。




 
この作品を初めて読んだとき、私が一番驚いたのは、『アンブロース・アーデルヴァルト』に出てくる、日本を巡る挿話です。参事官に仕えて、叔父は京都の「水上の別荘」とやらで短期間過ごします。
 
その本文の横に添えられた写真が、水上の別荘などではない。日本人なら誰でも知っている「あのお寺」の写真なのです。

これは是非読んで確かめてほしいと思います。これについて誰も言及しないのが不思議なのですが、ここまでぬけぬけと引用する度胸に、ちょっと寒気を感じてしまいます。
 
解説の堀江敏幸さんも触れていますが、ここで「写真として」出てくる新聞記事も、巧妙に本文に沿ったものです。この、現実を捏造して繋ぎ合わせるフィクションは強烈で、くらくらするような感覚を読者に起こします。



 
 
ここにおさめられた4つの物語は、語り手の「私」以外、基本的に全く関係はありません。ですが、「私」以外にも、4つを繋ぎ合わせる要素が実はあります。それは、「蝶が飛んだ」という言葉です。4人の主人公たちは、全く別の時、別の文脈で、ある種の「蝶」が飛ぶのを幻視します。
 
それは何なのか。本文に全く説明はありません。おそらくは、孤独な4人の移民、定住できずに彷徨っている人間が、ある時触れた、歴史の核のようなものなのかもしれません。

それは、まさに「胡蝶の夢」。人の中を自由に羽ばたいて「時」を超える蝶が、不意にその「時」の刻印を、孤独な人間に示したものなのかもしれません。
 
まどろみの夢の中で、幻想のように進む旅と対話を記したこの小説が、そうした時の味わいを深く宿した作品であるのは間違いありません。是非、一度読んで、体験いただければと思います。



今回はここまで。
お読みいただきありがとうございます。
今日も明日も
読んでくださった皆さんにとって
善い一日でありますように。
次回のエッセイでまたお会いしましょう。


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