ざわめきのリズムを感じて -ヘミングウェイ『日はまた昇る』の魅力
【水曜日は文学の日】
一般的に流布されているイメージと、読んでみた感想が違う文学は結構あったりします。
ヘミングウェイの初期の小説『日はまた昇る』は、マッチョとしばしばいわれるこの作家の作品の中でも、都会と旅の魅力に満ちた、煌めきに溢れる作品のように思えます。その鮮やかな描写は、また、「マッチョ」とは別の魅力に感じるのです。
新聞記者のジェイクは、第一次大戦の戦場で受けた傷で性的不能になり、パリでその日暮らしをしています。
元看護婦のブレットとジェイクはお互い惹かれ合っていますが、そんなジェイクを尻目にブレットは次々に男を替え、ジェイクは新進作家や破産者の友人達と自堕落に生活しています。そんな彼らはある日、スペインのパンプローナに闘牛を見に、旅をすることになります。
この作品の魅力は、会話と文体のリズムの良さと、旅するスペインの描写の美しさだと思っています。
短く次々に連なるような文章、それでいて淡白な印象は全くなく、パリから、スペインまで、その土地の魅力や匂いを、手短にまとめ上げられる才能は本当に素晴らしい。
ヘミングウェイは、初期は新聞記者として生計は立てていたものの、文体には詩的な味わいと秘めた熱さがあり、その本質は、ジャーナリストではなく詩人なんだと思わせます。
ジェイクと仲間たちの会話、性的に奔放なブレットとのやり取り等は虚無的ではあるけれど、人物たちは湿っぽい自己憐憫に陥ったりしない。そこら辺も非常に都会的な味わい。
そして、鼓動が高まるようなリズムの加速によって、眼に焼きつく闘牛の描写。全てが終わった後の、あの切れ味抜群の、ほんの少し感傷的なラストの余韻。
この虚無感と、リズムの良さ、表面の下の熱いマグマのようなパワーは、一度読んだら病みつきになって、文体を真似したくなるような魅惑に溢れています。1920年代以降の若手の作家に大きな影響を与え、ハードボイルド文学の先駆けとなったのが、今でもよく理解できます。
アーネスト・ヘミングウェイは、1899年、イリノイ州のシカゴ郊外生まれ。強権的で、女装を強要する母とは馴染めず、狩猟や釣り、ボクシングの手ほどきをしてくれる父を慕って育ちます。父親は、1928年にピストル自殺をしています。
1918年、見習い看護兵として第一次大戦に参戦し、イタリアに向かいますが、重傷を負います。そこで出会った看護士の女性との恋は、名作『武器よさらば』のモチーフとなります。
22歳の時にパリに出て、パリ在住の作家エズラ・パウンドやガートルード・スタインといったモダニズムの作家たちと交流します。
狂乱の1920年代パリ。ピカソの絵画やストラヴィンスキーの音楽が注目を集め、そしてジェイムズ・ジョイスの記念碑大作『ユリシーズ』が出版されたパリは、まさにモダニズムの都でした。その日々は後年、小説『移動祝祭日』で描かれることになります。
『日はまた昇る』は、1926年の作品。実際にスペインに、ヘミングウェイが妻や仲間たちと実際にスペインのパンプローナに闘牛を見に出かけた体験が元になっており、登場人物も、仲間内では「あれは誰それ」と分かるレベルに、現実をかなり模していたとのこと。ヘミングウェイは、終生、自身の周辺を題材に作品を手掛ける名手でした。
ところで、『日はまた昇る』を読むと思い出すのが、村上春樹の小説だったりします。
具体的にどの作品ということではありません。村上春樹の好きな小説家と言えば、ヘミングウェイの友人のスコット・フィッツジェラルドです(翻訳も多く手掛けています)が、資質的には、実はヘミングウェイの方が近いのでは、と個人的に思っています。
フィッツジェラルドの作品には、アメリカ中西部からニューヨークに出てきた、都会に憧れを持ったままの純情な男の子のような側面(『華麗なるギャツビー』はそうした部分が最も強い)があって、一見華やかに見える比喩と屈折に満ちた文体も、いい意味でどこかあか抜けないいなたさを感じます。
ヘミングウェイも村上春樹も、都会に対して期待しないし醒めている。シカゴ、兵庫(西宮)とそれぞれ洗練された都会で育ったから、と言うと言いすぎでしょうか。比喩を繋げてもぶっきらぼうで、感情が高ぶっても詠嘆したりしない、会話もクールな温度を保ったまま。資質として都会人な気がします。
都市の人間に故郷はない。東京であれパリであれ簡単に住み着いて、それでいて、都市を離れて知らない場所を旅することにも憧れている(前者のアフリカや終の棲家のキューバ、後者のラオス等)。
前者のスペイン市民戦争や後者のノモンハン事件や地下鉄サリン事件のように、社会的な事件に関心を持ち続けている(フィッツジェラルドにはそういう側面ははっきり言ってほぼないでしょう)のも不思議な共通点です。
そういえば、村上氏は短編小説集にヘミングウェイと同じ『女のいない男たち』と名付けていました。そして、そのタイトル通り、二人ともしばしば男性的、マッチョと称され、毀誉褒貶を受けることも。
彼らの小説には確かに男性的な側面があるとは思います。でも同時に、それはまた一つの断片でしかないとも思っています。
『日はまた昇る』の扉には、タイトルの元になった旧約聖書の引用の横に、ガートルード・スタインの言葉が載っています。
この「Lost generation」は、「失われた世代」という意味で使われることも多いですが、『移動祝祭日』での実際のスタインとの会話を見るに「自堕落な、だらしない」世代という意味で使われたという、新潮文庫の高見浩氏による詳細な解説は正しいでしょう。
と同時に、「Lost」には「迷子」という意味もあります。自堕落で、道に迷った若者たちの、都会の夜と「フィエスタ(祝祭)」の間の彷徨と言えなくもない。この小説自体が多義的な意味を持っているように思えます。
「失われた世代」のマッチョな作家の小説ではなく、都市で迷子になった若者たちの白昼夢と考えれば、その間から聴こえてくるパリの人々や闘牛を眺める観衆のざわめきが、より魅力的に響いてくるように思えるのです。
レッテルというのは便利なものではあるけれど、イメージに囚われずに、作品の間を「迷子」になってみれば、「失われた」何かを見つけられるのかもしれませんね。
今回はここまで。
お読みいただきありがとうございます。
今日も明日も
読んでくださった皆さんにとって
善い一日でありますように。
次回のエッセイや作品で
またお会いしましょう。
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