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ひなたの道を旅しながら -西脇順三郎の詩の魅力


 
【水曜日は文学の日】
 
 
詩の喜びの一つに、バラバラになった言葉の印象があると思っています。
 
鋭い決めフレーズやうらぶれた嘆きの言葉も勿論素晴らしいけど、何の物語もドラマも創らない言葉の断片全体が集まって、一つの空気を創りあげることの魅惑。
 
西脇順三郎の詩は、私にとって、そうした言葉が連なって乾いた空気を感じさせるのが魅力的な詩です。




西脇順三郎は、1894年新潟生まれ。家は代々名士の出で、画家を最初は目指すが挫折。大学時代は、フランスやイギリスの象徴派の詩作品を吸収します。


西脇順三郎


卒業後、病気で療養しつつ大学教授になると、1922年にはロンドンに留学してオックスフォード大学に入学。フランスやスイスに旅しつつ、T・S・エリオットや、フランスのシュルレアリスムに影響を受け、英語やフランス語で詩集を発表しています。
 
1926年には慶應義塾大学文学部の教授になり、日本のシュルレアリスム詩の運動にも関わります。
 
戦後も詩作を続け、『旅人かへらず』、『失われた時』、『豊穣の女神』と言った傑作詩集を残しています。1982年88歳で亡くなっています。




西脇の詩は、イギリスやフランスのモダニズム・シュルレアリスムの詩を日本語に取り入れた詩だと、ひとまずは言えます。
 
とりわけT・S・エリオットの『荒地』とエズラ・パウンドの『キャントーズ』。フレーズを細分化し、西洋から東洋のあらゆる神話の破片、そして現代の都市の詩情までかき集めて、モザイク状に並べて再構築する手つき。


春の朝でも
我がシシリヤのパイプは秋の音がする。
幾千年の思ひをたどり

『ambaravalia』


しかし、エリオットやパウンドが、そこからどこか壮大な黙示録を創りあげるような感触があるのに対し、西脇はあくまで断片のままにとどまり続けます。
 
西洋の神話も東洋の詩情もいっしょくたになりつつ、全体は湿っぽくなく、嘆いたりしない。様々なイメージが駆けつつ、全体としては明晰で、からっとした雰囲気があります。


葡萄酒の神よ
葡萄パンのやうな眼を持つ山羊がないから
アフリカ産のカモシカを捧げよう
それからこの脳髄にある孤独をあげる
それから古いアルカラザスの水差しをも
あげよう
コーラスは昔大学町できいたツグミを
あげて悲劇の祭りとせん
 

『あむぶるわりあ』



もっと幻想的な詩でも。


山から下り
渓流をわたり
村に近づいた頃
路の曲がり角に
春かしら今頃
白つつじの大木に
花の満開
折り取つてみれば
こほつた雪であつた
これはうつつの夢
詩人の夢ではない
夢の中でも
季節が気にかかる
幻影の人の淋しき

『旅人かへらず』




西脇は、詩集『あむばるわりあ』の後書きで、詩の価値を「何かしら神秘的な「淋しさ」の程度」でその価値を決めると書いています。また晩年の詩は特に、仏教的・東洋的な部分が出てきたと言われます。
 
ただその「淋しさ」は、どこまでいっても、東洋的な旅人の感覚とは少し違う。例えば、李白や杜甫から、西行や芭蕉まで続く寂寞の旅情とは別物の気がします。寧ろ、古代ギリシアの詩のように、事物がくっきり見える、地中海的な陽光に満たされています。


エーゲ海を望むギリシアの神殿




それはおそらく西脇自身の資質でもあり、また彼がモダニスムの美学に最後まで忠実だった結果のようにも感じられます。

西洋も東洋も全て等価値に見て、優劣をつけない。多くの場所を旅し、英語や仏語で書いたからこそ、日本の文化も相対的に距離を持って見られる、余裕のある視線。
 
また、彼の詩には、イメージを出した途端、それを厳しく否定して裏返すような部分があります。そうすることで生半可な感傷や思索を消し、言葉が磨かれるような感じがある。都会を描いていなくても、都会的にクールなモダンさがあるのです。


有と無の間を
歩いている者は何を考えているのか
金銅の裸の存在をみるためでもない
単に旅人の失われた夢の指環でもない
直線を避けるためである
四月にはシデクサとミツバツツジが
岩の間に咲いている
盆地の山々は
もう失われた庭の苦悩だ
失う希望もない
失う空間も時間もない
永遠のうら側を超えて
違った太陽系の海へ
洗礼に行くのだ
 
(中略)
 
三角形の一辺は他の二辺より大きく
見える季節を祝うのだ
すべての円をゆがめて
弓を張って永遠を射ることだ

 『失われた時』

 

あるいはこんな詩。


シムボルはさびしい
言葉はシムボルだ
言葉を使うと
脳髄がシムボル色になって
永遠の方へかたむく
シムボルのない季節にもどろう
こわれたガラスのくもりで
考えなければならない
 
(中略)
 
これらは何ものも象徴しない
象徴しないものほど
人を惹きつける

『えてるにたす』


「寂しい」「失われた」「永遠」という感傷に転びそうな言葉や象徴を出しても、否定して宙づりにする、ある種の清潔さと健康的な明るさ。そうした明るさのために、私は何度も彼の詩を読み返したくなります。




そんな西脇の詩を「旅先で読むに適している」と名著『青天有月』で言及したのは、詩人・小説家の松浦寿輝でした。


仮寝の床で神経が立っている旅行者の不安と興奮を、あちこちとりとめもなく拾い読みする西脇順三郎の言葉ほどやさしく慰撫してくれるものはない。
 
それはたぶん彼の言葉が、人間は何もないところから生まれてきて、光が回っているただなかをひっそりと通り過ぎ、また何もないところへと帰ってゆくのであり、生きることの歓びは、この短い旅程の「淋しさ」と「つまらなさ」の一瞬一瞬を心を澄みわたらせて噛み締めることのうちにしかないという事実だけを静かな声で語っているからだろう。

『青天有月』


この美しい言葉は、西脇の詩の魅力を見事に表しているように思えます。

そう、彼の詩の中には、湿った寂しげな枯野ではなく、光に満ちた季節を旅しているような感覚があります。
 
明るいひなたの道を歩いていると、全ての風景がはっきりと見える。憂鬱や寂しさを覚えることもなく歩く、全てが充実した感覚。

旅をするとは、自分の感傷に染まるのでなく未知のものを見て喜び、暖かな陽光を全身で感じる、「シムボルのない季節」の幸福なのかもしれません。
 
それはつまり、松浦氏の言う通り、人生という旅にも当てはまるものなのでしょう。是非、その旅を彩る西脇順三郎の詩の魅力を、堪能していただければと思います。



今回はここまで。
お読みいただきありがとうございます。
今日も明日も
読んでくださった皆さんにとって
善い一日でありますように。
次回のエッセイや作品で
またお会いしましょう。


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