記憶の森を彷徨う ―ヒッチコック『めまい』の美しさ
【木曜日は映画の日】
アルフレッド・ヒッチコックの1958年の映画『めまい』は、2000年代以降、多くの映画のベストテンで上位、しかも1位か2位を争う程の高い評価を受けています。
公開時も高い評価は受けていたものの、年を経るごとにどんどん評価は上がり、映画の古典とも言える作品になりました。
しかも、他の「上位作品」と違い、多くの作家に換骨奪胎され、思考を誘発する傑作となっています。
刑事のスコティは、犯人を追っている際、高所恐怖症によるめまいによって、同僚を死なせてしまいます。警察を辞めて、悠々自適の探偵業をしていると、学生時代の旧友のエルスターから依頼が来ます。
妻のマデリンが、彼女の曾祖母でカルロッタという、悲劇的な最期を遂げた女性に取り憑かれている、彼女を監視してほしいとのことです。
半信半疑だったスコティは、美しいマデリンを、美術館、モーテルと尾行します。そして彼女がゴールデン・ゲート・ブリッジの袂で海に飛び込んで溺れていたのを助けて、面識を得ます。
急速に接近するスコティとマデリン。果たして彼女は何に取り憑かれていたのか。二人は後戻りのできない場所へと、吸い込まれるように落ちていきます。。。
この作品の魅力は、ある種神話的なところと、近代的、個人的なところが、絶妙に混ざっているところでしょう。
探偵が謎の美女を追うという、ハードボイルドな都会的な展開が、やがて暗い冥界に誘われるような、異様な色合いを帯びていく。
過去に浸されたマデリンと、彼女に魅せられたスコティの、二人きりの、みちゆきであるかのような逍遙。
特に、教会の近くでの森で二人でさまようシーンは、殆ど会話になっていない、夢の中での出来事のように見えてきます。
まるでギリシャ神話で、冥界から妻を連れかえろうとするオルフェウスのごとく、マデリンに呼び掛けるスコティ。太古から降り注ぐかのような琥珀の光が、森の深い緑を彩って殆ど時間が止まっています。
そしてそんな緩慢な二人の歩行を断ち切った先に待ち受ける、驚くべき真相。
それも、オカルトではなく、ちゃんと展開に合理的な説明がつき、それでもなお、割りきれない部分が残るのが一番の魅力でしょう。
あらゆる台詞が二重の意味を含んで、何が真意なのか、分からなくなる瞬間があります。それがあのラストを導く。
ヒッチコックは、この作品の結末はサプライズではなく、サスペンスを優先させたと語っています。
そして、そのサスペンスだけでなく、結末に至るまでの、緩やかな時間が流れる部分が、大変美しい。
あのレストラン、墓地、そして教会。真相を知った後でも、何度でもあの場所をスコティと共に訪れたくなる。それゆえに、熱愛する人が多いのでしょう。
神話的な面で言うともう一つ、後半にはいわゆるピグマリオン的なモチーフがあります。
つまり、自分の理想の存在を創造し、命を吹き込むということ。
前半のオルフェウス的な「冥界に落ちて、死から愛する人を連れ戻す」というモチーフと、この「神の如き創造(と失敗)」というモチーフは、西洋だけでなく、世界各国の神話に見られるものです。
神秘の域に踏み込んで、願いを叶えたい、という思いは、あらゆる場所と時代の人間に普遍的なものでしょう。この作品は、その普遍性にしっかりと沿い、そして説得力のあるストーリーを生み出しているがゆえに、いつまでも心に残ります。
そして、この二つのモチーフは一つの概念で繋がっています。それは、記憶です。
スコティは、マデリンに対して、ひたすら問いかけます。君は一体どこにいた? 何を覚えている? 何を見たのか?
彼女は必死に答える。それは、マデリンのものなのか? それとも、古代から続く何か別の記憶なのか?
記憶というものの曖昧さ。私たちは、他人の記憶を、他人が語る言葉でしか感じることができないという、絶望と甘美な感触を、この映画は痛切に語ります。
その意味で、私はあの緑の森の場面が、この作品で一番好きです。
森は、スコティ自身が言うように、人間と関係なく生きて、光と影を創り出す。
記憶とは、そんな神秘の場所から生まれるかのようです。
実際、スコティがマデリンを初めて見る場所は、真っ赤な壁のレストランで、マデリンはそんな中一人だけ、赤の補色の、緑の輝くドレスをまとっていました。
そして後半のアパートのあの緑色のネオン。まるで、太古の森の緑に閉じ込められた「彼女」の記憶が溢れて画面に偏在しているかのようです。そんな妄想も引き出せるのが、この作品の魅力なのです。
こうした神話的な感触がありつつ、この作品は非常にシンプルです。つまり、スペクタクルは殆ど無く、男と、彼が追いかける一人の女、そして、二人の記憶を彩る街並みやモニュメントがあればいい。
そうしたシンプルさも、今の時代に多くの人に支持される理由の一つでしょう。自分もこうした作品を創れる、自分にとっての『めまい』を創りたいと誘発する、シンプルな凄みです。
その筆頭には、『殺しのドレス』等で、まさに作品に浸るように、パロディを超えて、物語と映像に浸透するレベルで引用した、ブライアン・デ・パルマのような人がいます。
それにしても、この作品は、ある意味偶然の産物でもありました。
偶然ヒッチコックの脂がのった時期に、ヒッチコックに非常に適した小説があった(実際彼が監督してくれるよう、想定して書かれたそうです)。そして、主演を想定していたヴェラ・マイルズが妊娠して降板し、キム・ノヴァクがマデリンを演じることになった。
マイルズの方が、演技的にはうまいです。しかし、聡明で、感情をストレートに表せる彼女だと、この作品は全く違ったものになったと思います。
ノヴァクは、いつも戸惑っているようで、同時に、まるで目を開きながら夢を見ているような、地上から浮かんだ感触があります。
実際、ヒッチコックと合わずに、その演出に苦労していたとのことですが、それゆえに、まさにマデリンに適役だったのは、見た誰もが思うことでしょう。
溢れ出す太古の森の記憶は、スコティが辿った道のりのように、偶然現れては消えるものなのかもしれない。
この作品は、結末を知った後にその「偶然」を見ると、また違う味わいを見せます。何度も形を変える、記憶のその味わいを是非、堪能していただければと思います。
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