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流れ出す美の夢 -谷崎潤一郎『春琴抄』の魅力


 
 
【水曜日は文学の日】
 
 
谷崎潤一郎は長いこと活躍し、名作も多数ある文豪中の文豪です。以前『痴人の愛』や、芥川龍之介との「競作」も取り上げたことがあります。
 
『春琴抄』は、そんな彼の作品の中でも、指折りの美しさを持ち、しかも短く、謎めいた名作です。





冒頭、作者が江戸末期の三味線の名手、春琴の墓を訪れる所から始まり、「鵙屋春琴伝」という伝記を手に入れて、紹介して語っていくという形で進んでいきます。
 
春琴は、幼い頃失明し、三味線を習得して師匠格になります。そんな春琴の周りを、丁稚の佐助がお世話することに。
 
我が儘し放題に育った美しくも驕慢な春琴。苛烈なふるまいに耐えつつ世話をする佐助。やがてそれは、傍目から見て不思議な関係となり、ある日、事件が起こります。。。





時代によって作風を変えつつも、一貫して谷崎が追求してきた、女性崇拝とマゾヒズムの極致とも言える物語。しかし、初めて読んだときに驚くのは、その長い文章でしょう。
 

音曲の道に精魂を打ち込んだとはいうものの生計の心配をする身分ではないから最初はそれを職業にしようという程の考はなかったであろう後に彼女が琴曲の師匠として門戸を構えたのは別種の事情がそこへ導いたのであり、そうなってからでもそれで生計を立てたのではなく月々道修町の本家から送る金子の方が比較にならぬ程多額だったのであるが、彼女の驕奢と贅沢とはそれでも支えきれなかった。


ここまで一文。恐ろしい長さなわけですが、面白いのは、いわゆる前衛的な小説とは、長さの性質が異なることです。
 
例えば、プルースト『失われた時を求めて』の長い一文は、比喩に比喩を重ね、関係詞が一体どこに繋がっているのか分からなくなってしまったレベルに折れ曲がった文です。

それゆえに、美しくはあるけど、読みづらいのは間違いない。
 
プルーストの影響を受けた、クロード・シモン等のいわゆる「ヌーヴォー・ロマン」の作家も同様。しかし、『春琴抄』は、各段に読みやすいです。
 
『春琴抄』の長文とは、通常なら句点を使うところを省き、短い文を「~で」や「~が」で繋いで長文に仕上げたものです。だから、これを句点によって区切って読みやすくすることは可能です。
 
そして、おそらくそうしても、この作品の面白さは変わらないであろうことが、大変興味深いです。
 
もし、『失われた時を求めて』のあのうねる文章を区切ってしまったら、作品の魅力は半減してしまうでしょう。文章の構造自体が変わってしまうからです。しかし『春琴抄』なら、文の繋がり自体は何も変わらないから、何の問題もない。





では、一体なぜ、谷崎はこんな文章にしたのか。それは、古文の文体の「見た目」を模倣したかったからではないでしょうか。
 
古文には句点や読点が殆どなく、一文が長々と続いていく。その途切れずに流れていく「感触」を再現したかったのではないか。
 
『蘆刈』や『卍』等、長い長い語りの文章に彩られた名作もあるように、谷崎自身がそういう流れる文章を読むのも、自分で書くのも好きなように感じます。




それは、谷崎の日本趣味か。勿論それもあるでしょう。しかし、この作品は、太古の平安時代でも、江戸初期でもなく、江戸~明治時代初期の、谷崎にとっては身近な時代です。

実は、単に長い文章の、その呼吸のようなものが持つ快楽に、忠実だっただけなのではないかという気がしています。
 
対象を舐めるように描写して、その描写の快楽が緩やかに流れて続く。その流れを切りたくないから、融通無碍に文章を繋げ、意識しないレベルでふっと切って、また繋げる。
 
言ってみればそれは、作品の本質ではない、ある種の「装飾」です。

であるがゆえに、凄絶な美しさを持ちます。あらゆる作家が血反吐を吐いて創りあげる「文体」を、自分の快感のために飾り立てて繋げてしまうのですから、これ以上の贅沢はないでしょう。




プルーストが、厚塗りを重ねた油絵だとすれば、『春琴抄』は、ふわふわと薄い墨汁が染み込んで、横に延々と伸びていく墨絵の絵巻物のようです。
 
そして、その薄い墨の筆致によって、春琴の傲慢なふるまいと美しい肌を味わう佐助の恍惚が、緩やかに読者にも浸透していく。
 
だからこそ、クライマックスの「あの一瞬」が、全てを断ち切る、恐ろしい瞬間として、読者の目に飛び込んでくるのでしょう。是非それは、読んで確かめていただければと思います。




文体の「見た目」は古風なのに、語り口はシンプルで、すっきりとしている。そして、春琴と佐助の関係性は、江戸から明治時代の封建制と全く違う、驚くほど自我が確立して、モダンなものです。
 
『春琴抄』は江戸情緒とも中世のファンタジーとも違う、いわば谷崎によって捏造された「和風もどき」の御伽噺と言えます。
 
そこでは、男女の機微や欲望が、表面的な墨絵の下で鈍く輝いて、全体が仄かに光を発しています。




そのモダンさは、題名にも表れています。

「春琴抄」、「Shunkinsho」という、SとKの軽い子音で主に出来た、重力が存在しないかのような、軽やかな響き。

『卍』(Manji)の、重たく、こってりと脂ぎった響きによる、レズビアン関係も含む愛慾の世界とは対照的です。
 
その軽やかさは全編を覆い、あのラストに出てくる雲雀のように、空の彼方に消えることで終わる。

愛も憎しみも、歳月も、全てが柔らかい夢のような美しさの中に消えていく。それゆえに、読み返したくなる名作なのでしょう。
 
傑作の多い谷崎の中でも、そんな軽やかさに彩られた美しいこの作品。是非、何度も体験いただければと思います。



今回はここまで。
お読みいただきありがとうございます。
今日も明日も
読んでくださった皆さんにとって
善い一日でありますように。
次回のエッセイや作品で
またお会いしましょう。


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