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過去の呼び声で振り返る -小説『終わりの感覚』の面白さ

 
【水曜日は文学の日】
 
 
年齢を重ねるにつれ、どれ程楽天的な人であっても、悔恨することが増えてきます。
 
イギリスの小説家、ジュリアン・バーンズによる2011年の小説『終わりの感覚』は、そんな老年の悔恨のありようをアイロニーにくるんで切れ味よく描いた傑作です。イギリス最高の文学賞、ブッカー賞を受賞しています。




人は時間のなかに生きる。時間によって拘束され、形成される。

土屋政雄訳


 
引退した生活を送る平凡な老人トニーに、見知らぬ弁護士から連絡が来ます。
 
ある女性の遺言で、ある人物の日記を寄贈したいとのこと。その女性はトニーの昔の恋人ベロニカの母親で、日記は、高校時代の親友だったエイドリアンのものでした。
 
ベロニカはトニーと別れた後、エイドリアンと付き合っていました。思慮深く、トニーも敬愛していたエイドリアンはしかし、ケンブリッジ大学在学中に自殺。そんな彼の日記を、なぜトニーに贈るというのか。
 
数十年ぶりにベロニカと再会するトニー。ベロニカは、つっけんどんな態度で、日記をなかなか渡そうとしません。自殺したエイドリアンの本当の気持ちを知るためにも、トニーは過去を反省し、現在のベロニカと、できるかぎり誠実に対峙しようとするのですが。。


『終わりの感覚』日本語版


この小説は、新潮クレストブックで日本語訳が出た年に、いくつかのミステリ雑誌で、海外翻訳ミステリの年間ベストテンにランクインしています。狭義の意味でのミステリではないのですが、やはりあの終盤の、切れ味抜群の驚くべき瞬間は、それ程印象的だったということなのでしょう。
 
真相となおも残る謎は、読者の方で想像を以って余白を埋めるようになっています。改めて何のためにトニーが存在していたのかを考え、それぞれの人物が行動した時の気持ちを考えると、別の意味が浮かび上がる。そこが、最良のミステリにも通じる、この作品の魅力でしょう。


記憶は、飛行機事故を記録するブラックボックスのようなものだ。墜落がなければテープは自動消去される。何かがあって初めて詳細な記録が残り、何事もなければ、人生の旅路の記録はずっと曖昧なものになる。 

土屋政雄訳




と同時に、この作品はその最終盤までは、ある種の回想、いや悔恨小説になっています。
 
エイドリアンや学生時代、ベロニカとの思い出は、甘酸っぱいものではなく、思い出すたびに、苦みを感じるようなものとなっているのが、大変興味深いです。
 
トニーは人生で成功しているわけでもないし、失敗したわけでもない。その事実が、華々しい成功や劇的な失敗を回顧する時につきまとう陶酔感を削ぎ落しています。
 
不満があるわけではないが、かといってこの人生は良かったと、本当に手放しで言えるのだろうか。そんな思いが、エイドリアンの過去とベロニカの現在に触れる度に、ちくちくと心に刺さっていく。
 
何というか、特にベロニカに対してデリカシーがなく、コミュニケーションそのものを拒絶されている様は、いわゆる陰キャ感がすごくあり、それがこの作品を、仰々しい回顧録の気恥ずかしさとは別物にしています。
 
しかし、悔恨しつつも、決して憂鬱な気持ちにならないのは、トニーの一人称で進むその文章が、明晰さと、ある種の謙虚さ(文章の上では)を持ち、ちょっとしたアイロニーを失わないからでしょう。


私は生き残った。「生き残って一部始終を物語った」とはよくお話で聞く決まり文句だ。私は軽薄にも「歴史とは勝者の嘘の塊」とジョー・ハント老先生に答えたが、いまではわかる。そうではなく、「生き残った者の記憶の塊」だ。そのほとんどは勝者でもなく、敗者でもない。

土屋政雄訳


 
この言葉は、ある程度年齢が過ぎて、自分の人生を振り返った人の多くが感じることではないでしょうか。




作者のジュリアン・バーンズは1946年生まれ。1980年に小説家デビューし、奇想に満ちた意外な仕掛けの小説で知られました。
 

ジュリアン・バーンズ


84年の『フローベールの鸚鵡』は、『ボヴァリー夫人』で知られる小説家への評論とフィクションとエッセイが混然となった秀作。98年の『イングランド・イングランド』は、ワイト島にイングランド的な要素を詰め込んだテーマパークを創ろうとする起業家たちを描くことで、虚実の内幕と、イングランドへの考察を含んだ興味深い作品でした。
 
アイロニーと尖った感性があり、『終わりの感覚』を読んだときはその暗い感触との落差に少し驚きましたが、解説によると、作品の三年前に、長年連れ添った妻を亡くしていたとのこと。当然、死や過去への回想、記憶と言ったものを、シリアスに扱いたいという思いはあったのでしょう。


(ジム・ブロードベンド主演の、映画版の予告編)



と同時に、雀百までというか、資質的にはバーンズはアイロニーに満ち、人生の悲劇を、距離を置いて見つめることのできる人なのだと思います。それが『終わりの感覚』全編の風通しのよさにも繋がっている。
 
その意味で、川端康成の『眠れる美女』のような、陶酔的かつ耽美的な老人回想小説ではなく、やはりユーモアとアイロニーの人だったチェーホフの名作で、老教授の憂鬱な生活の独白である『退屈な話』に近いものを感じます。

描かれる人生は平凡で退屈でも、描き方、切り取り方によって、面白い小説になるという意味で、似た資質のように思えるのです。




それでも、あの衝撃を抜けた後の、滔々と続く哀感は凄まじい。アイロニーすら通じなくなる、ある種の黙示録的な強烈なヴィジョンが描かれます。
 

人生の終わりに近づくと、いや、人生そのものでなく、その人生で何かを変える可能性がほぼなくなるころに近づくと、人にはしばしば立ち尽くす時間が与えられる。ほかに何か間違えたことはないか・・・。そう自らに問いかけるには十分な時間だ。 

土屋政雄訳

 
エイドリアンが残した日記のような、過去からの思いもかけない呼び声によって、人は全てを振り返り、立ち尽くす。

勝者でも敗者でもない者に等しく訪れるその瞬間が、この小説でどう描かれるのか。それは是非読んで体験いただければと思います。



今回はここまで。
お読みいただきありがとうございます。
今日も明日も
読んでくださった皆さんにとって
善い一日でありますように。
次回のエッセイや作品で
またお会いしましょう。


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