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【エッセイ#37】闇は孤独ではない -エドワード=ホッパーの美学

 闇というものは、深い孤独や苦しみに結びつきがちです。多くの絵画や映画における闇とは、心の奥底の暗い部分の隠喩になっている場合が多い。しかし、闇とは、本来それに限定されないはずです。


 
アメリカの画家、エドワード=ホッパーの絵画を見る時の喜びというのは、闇や光がある種の意味を持っていないということです。彼の作品は、よく、都会の人の孤独を描く、と言われ、それは当たっているとも思います。しかし、そこに描かれている光景は、決して孤独だけではないように思えます。

例えば、代表作の、『ナイト・ホークス』を観てみましょう。広いダイナーで、給仕をしている男に、カウンターに座っているスーツを着た男と、赤いドレスを着た女性、そして後ろを向いたスーツの男がいます。

『ナイト・ホークス』
アート・インスティテュート・オブ・シカゴ蔵

 
彼ら以外に人影は見えません。これは、どこか都会の一風景でしょうか。しかし、そう呼ぶには、あまりにもリアリティを欠いています。
 
例えば、道路の路面は、綺麗にのっぺりとした緑色で、ごみやほこりもありません。店内もちょっとおかしく、給仕の後ろのおそらくはコーヒーメーカーぐらいで、店を経営している様子が伺えません。テーブルの上の調味料瓶も本来は、もっとあるはずでしょう。何というか、生活感に欠けるというか、人が活動している感じがしないのです。
 
それは、登場人物にも言えます。給仕が仕事に疲れているのか、女性や、女性の隣の男性が何を考えているのかはさっぱりわかりません。この二人の関係性も不明です。後ろを向いている男についても言わずもがなです。
 
つまり、ここには人のリアルな感情というものが欠けているのです。孤独というのは、もっと生々しい、悲惨な情景によって、出てくるものではないでしょうか。そう思えるには、あまりに現実感を欠いています。


 
しかし、それゆえに、どこか、この絵全体から、ある種の爽やかさのようなものが現れてくるのです。べたついた感情を反映したり、そういう感情に左右されたりしない、爽やかな闇とでもいうような、矛盾したものを感じるのです。
 
つまり、ホッパーはある種の抽象画家のようにも思えます。彼はある種の悲しみを描いたりはしません。と同時に、感情の交流や親密さのようなものも描かない。それゆえに、「都会の孤独」ではあります。それは、決して痛みのような感情を伴うものではありません。


 
以前、印象派や写真家のソール=ライターについて「都会を生きる画家」の系譜と書きましたが、ホッパーも明らかにその系譜を継いでいます。

その中でも、彼は感情にも、リアリズムにも決して走らない、最もクールな画家の一人といって良いでしょう。そこから、同時に、仄かに詩情と、不思議なことに、暖かさもこみ上げてきます。



ホッパーは印象派の中でも、ドガを称賛して、このように言っています。

目に見えるものを描写するのは素晴らしい。記憶にとどめたものを絵にするのはもっと素晴らしい。想像力と記憶が結びついて働くとき、変形が生ずる。人は、やむを得ないもの、つまり必然的なものだけを再生する。このようにして個人の記憶はほかならぬ着想として、自然の専制から解放されるのである

ここには、彼の方法論と、彼の作品の殆どが込められているように思えます。つまり、彼は、現実の光景を決して再現しようとしない。あくまで、彼の記憶の中の光景を描く。記憶というものは、音も、細部もない、リアリティのない、抽象的なものです。
 
しかし、それゆえに、本当に残したい、現実のエッセンスのようなものが残る。これを、彼は自然の専制から逃れるという面白い言葉で表現しています。つまり、彼が描く光景とは、自然ではなく、夢の中の光景のような、朧げかつ濃密な存在なのです。


 
例えば、『ニューヨークの映画館』の女性は、ロビーに一人佇んで孤独に見えます。しかし、彼女の表情は見えません。ただ、頬に手を当てたポーズから微かなメランコリーが醸し出されるだけです。まさに夢の中のような情景。

そこには、現代生活への批判も女性への同情もありません。それゆえに、どんなリアルな絵画よりも、この闇は、私の心を落ち着かせてくれます。

『ニューヨークの映画館』
ニューヨーク近代美術館蔵

 
それは、都会だけでなく、アメリカの広大な光景を描いた作品でも変わりません。

『陽光を浴びる人々』
国立アメリカ美術館蔵

ホッパーは生前、自分の絵画が「アメリカ的」と言われるのを、極端に嫌ったそうです。それはそうでしょう。彼は身の回りの光景を感じて、記憶に載せて、余計なものを削ぎ落しただけに過ぎないのですから。

それは、アメリカでなく、普遍的な光景です。と同時に、抽象化することで、アメリカの生活の奥底にあるものも掴んでいるとも言えます。


 
私が好きな晩年のホッパーの作品に『二人のコメディアン』があります。それは、幕が降りて観客に別れを告げる道化師のカップルを描いています。

『二人のコメディアン』
個人蔵

この二人の顔は、ホッパーと、彼が生涯愛した妻のジョーと言われています。こんなちょっとしたユーモアも持ったホッパーが描く闇。一度「孤独」というフィルターを抜かしてみて、その暖かさと、抽象美を味わうのもまた、素晴らしい体験かと、思っています。


今回はここまで。
お読みいただきありがとうございます。
今日も明日も
読んでくださった皆さんにとって
善い一日でありますように。
次回のエッセイでまたお会いしましょう。


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