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思考をプリズムで見る -『スピノザ 実践の哲学』の面白さ


 
 
【水曜日は文学の日】
 
 
人は誰かの考えていることを、説明したりします。しかし、それが本人が「本当に」考えていることかはわからない。場合によっては、その対象の誰か自身ですら分かっていない場合もあります。
 
フランスの哲学者ジル・ドゥルーズが書いた『スピノザ 実践の哲学』は、スピノザという一人の哲学者の思考を見事に取り出して描き、ドゥルーズの思想自体をも描けた素晴らしい書物です。




バルーフ・スピノザは、1632年、オランダのアムステルダム生まれ。いわゆる「汎神論」、神が一つの人間のように人格を持つのではなく、全てのものに、ある種の神性が宿るという立場で、その後、カントからヘーゲル、ニーチェに至るまで影響を与えました。

『エチカ』や、『神学・政治論』等、現代でも良く読まれるアクチュアルな思想家です。
 

バルーフ・スピノザ


ジル・ドゥルーズは、1925年パリ生まれ。二十世紀後半フランスを代表する哲学者です。

フェリックス・ガタリとの共著『アンチ・オイディプス』や、『千のプラトー』等で、精神分析や統合的な思想体系を批判し、様々な思想や諸芸術を「分裂」や「器官なき身体」等、自由でしなやかな観点で見つめ直す哲学を展開しました。
 
『スピノザ 実践の哲学』は、ドゥルーズが影響を受けたスピノザについて、哲学者の入門書シリーズの一冊として書かれた本を基にしています。その本に加筆修正して1981年に出版されたもの。前年の1980年には代表作『千のプラトー』が出版されており、加筆された第六章等、二つは共鳴しています。


ジル・ドゥルーズ


この本は全六章から成り立っています。
 
第一章はスピノザの生涯。手短にまとめられ、『知性改善論』を放棄して『エチカ』に向かい、宗教対立で暗殺が横行するオランダの政治状況を見て『神学・政治論』という爆弾のような名著を記した生涯が描かれます。


『神学・政治論』の中心に据えられた問題のひとつは、なぜ民衆はこんなにも頑迷で理を悟ることができないのだろう、なぜ彼らは自身の隷属を誇りとするのだろう、なぜひとびとは隷属こそが自由であるかのように、自身の隷属を「もとめて」闘うのだろう、なぜ自由を単に勝ち取るだけでなくそれを担うことがこれほどむずかしいのだろう、なぜ宗教は愛と喜びをよりどころとしながら、戦争や不寛容、悪意、憎しみ、悲しみ、悔恨の念をあおりたてるのだろうということだった。

鈴木雅大訳


第二章は、スピノザの主要な概念について。人の意識や道徳(価値観念)、悲しみ(受動的な感情)に対してのスピノザの厳しい視線が、引用を交えて、ドゥルーズによって語られます。
 

いい(自由である、思慮分別がある、強さを持つ)というのは、自分のできるかぎり出会いを組織立て、みずからの本性と合うものを結び、みずからの構成関係がそれと結合可能な他の構成関係と組み合わせるよう努めることによって、自己の力能を増大させようとする人間のことだろう。

鈴木雅大訳


第三章は「悪についての手紙」。スピノザと、論争好きで揚げ足取りが好きな一人の論客(いつの世も変わらないものですね)との、「悪とは何か」という手紙のやりとりによって、スピノザが自身の思想を固めていくさまが分かり、小説を読んでいるような面白さがあります。
 
例えば「殴る(腕を振り上げ、拳を握って振り下ろす)」という行為の何が悪いのか。
 
その行為によって、その構成関係が破壊されてしまう(例えば誰かを殴り殺してしまう)場合は悪い。しかし、同じ動作でも、熱い鉄をハンマーで叩いて鍛えるのなら、それは良い行為となる。そうした行為の「結びつき」の意味が、『エチカ』で全面的に問われることになります。


『スピノザ 実践の哲学』
表紙


第四章は、その『エチカ』の主要概念をドゥルーズが解説したもの
 

もし三角形に口がきけたら、神は卓越的に三角であるということだろう。スピノザがこの卓越性という概念を批判するのは、この概念が、神を一方では人間的な、擬人化さえした性格をもって定義しながら、同時にその特殊性を救おうとするさいの常套手段として持ち出されるからだ。

鈴木雅大訳


 
第五章は『エチカ』に至るまで、初期の『知性改善論』が放棄された理由を探る、短いけど面白い章。そして、最終章『スピノザと私たち』に、至ります。
 
この章は、スピノザの解説ではなく、スピノザ的に、つまりは私たちが「自由に」生きるとはどういうことか、ということを素晴らしいスピードで語り切ったものです。
 
 

けっして最も難しくはないが、最も速い、無限の速度に達している『エチカ』の第五部、(中略)この第五部は何と並外れた構成を持ち、どれほどここでは概念と情動が出会いをとげていることだろう。また、どれほどこの出会いは、前四部をともどもに構成してきた 天界的と地下的な運動によって準備され、必至のものとなっていることだろう。

スピノザを愛した多くの注釈者たちが、愛するほどに彼を「風」になぞらえて語ってきた。また、実際、風以外にたとえようがないのである。

鈴木雅大訳


私はこの一節に到達する度に、何度でも胸が熱くなります。この『スピノザと私たち』という章自体が、『エチカ』第五部のような、私たちの自由な生をもたらす思考の風を運んでくれるように感じるのです。

そう、私たちがどのようにして喜びと自由を得て生きていくかということを考えるために、スピノザの思想と、この本はあるのでしょう。是非その風を感じていただければと思います。




『スピノザ 実践の哲学』が、思想書として優れているのは、多角的な面から、一人の思想家を捉えることに成功しているからでもあります。
 
人は、様々な側面を持っている。それを、伝記スタイルだけで単調に捉えるだけでは、多くのものがこぼれてしまう。一つの川にも急流と穏やかな流れがあるように、人生にもまた様々な濃淡があります。
 
ある時は「悪とは何か」という、重要な思考の過程にクローズアップし、ある時は、スピノザの言葉をちりばめて、再構成する。それらの輝きをちりばめることで、一人の思想家と、彼が生きたことが、どのような星座を描いていたのかを、私たちは知るのです。
 
そうすることで、その星座を見出した、ドゥルーズ自身の思想もまた、私たちは知ることになる。『悪についての手紙』でのスピノザと同様、書いていくうちにドゥルーズの思考も広がっていくようです。

誰かについて語るとは、自分自身を語ることでもあり、つまり、その誰かと自分の間で共鳴する思考を知っていくことでもある。
 
そうした、様々な共鳴を含んだ、色とりどりの思考のプリズムを集めること、それこそが、本当に生きることなのかもしれない。そんなことをも考えさせてくれるのが、この本なのです。
 


今回はここまで。
お読みいただきありがとうございます。
今日も明日も
読んでくださった皆さんにとって
善い一日でありますように。
次回のエッセイや作品で
またお会いしましょう。


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