人生以上の「推し」 -傑作メロドラマ映画『忘れじの面影』
今は、アイドルへの「推し活」というのが盛んですね。noteにその推し活の記録を付けている方も、いらっしゃいますね。
私はXやnoteで人の推し活を見るのは好きなのですが、自分では、アイドルにはまったことは、今まで一度もなかったりします。
以前書いたように、デヴィッド・ボウイのようなアーティストの作品や思考、生き様に刺激を受けたりすることはあっても、それは「推し」とは違う気がする。グッズとかを欲しいと思ったことはないですし。
なぜ自分はそうなのかを考えてみると、メロドラマを好きなことが関係しているのではないかと思ったりします。
つまり、メロドラマの中には、憧れや偶像が壊れて、主人公が幻滅や破滅の道に陥り、涙を誘うタイプの作品があります。
そうした作品を見慣れているから、自分がアイドル=偶像にはまることに、警戒心というか、冷めてしまっているのかもしれません。
そんなメロドラマ映画の一つに、マックス・オフュルスの『忘れじの面影』があります。彼が1949年にハリウッドで撮った、古典的なメロドラマの大傑作です。
私は何度も観返しているのですが、現在の眼から見ると、実はこれは、究極の「推し活」映画と言えるかもしれない、と思うことがあります。そして、この作品の凄さは推し活の「その先」も描いているところにあります。
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この映画はオーストリアの作家で、マリーアントワネットの伝記でも有名な、シュテファン・ツヴァイクの原作です。『忘れじの面影』という典雅な邦題は、この作品の雰囲気と内容を実によく表していますが、映画の原題は『見知らぬ女性からの手紙』です。
舞台は、1900年頃のウィーン。雨の夜更けに馬車が走り、アパルトマンの前で一人の紳士が降ります。
他に乗っている紳士の話から、降りた紳士は翌朝決闘に出なければいけないこと、彼にはおそらくは逃げ癖があることが分かります。
部屋に入り、実際、彼は夜明け前に逃げようと考えるわけですが、迎えた老召使に手紙を渡されます。シルクハットを脱ぐと、やや白髪交じりの年配と分かる男。彼がおもむろに手紙を眺めると、こう書かれています。
その言葉で彼は、真剣に手紙を読み始め、手紙の女性のナレーションが回想する形で、物語は過去へと遡っていきます。
手紙の差出人はリーザという女性。もっとも、手紙にその記載はなく、回想の映像の中で他の女性に呼ばれるだけです(これには重要な意味があります)。
リーザが少女の頃のある日、彼女が住むアパルトマンの隣の部屋に、ピアニストが引っ越してきます。それが、まさに手紙を受け取った冒頭の男、ステファンです。
彼が弾くピアノの音に惹かれ、ハンサムでプレイボーイな彼に、リーザは恋に落ちます。しかし、まだ少女の彼女は、彼のピアノ演奏を隣の自分の部屋で聞くだけで、話しかけることもできません。
ある日、リーザは親の関係で、リンツに移住することに。しかし、ステファンのことが忘れられず、リーザは18歳を過ぎると、自分一人でウィーンに戻ることに。美貌を生かし、高級ドレス店でモデルをして生活します。
そして、ステファンと再会します。かつての隣の少女と分からないステファンは、リーザに惹かれ、二人はデートを重ねます。
ここで興味深いのは、リーザがモデルだということです。一見自分の手で働く自立した女性に思えますが、当時のモデルやお針子は、ややいかがわしい出自と目的で生活していた人たちが多いです。実際、リーザを店で見た裕福そうな老人が、彼女を誘おうとする場面もあります。
リーザを演じているジョーン・フォンテーンが清廉な雰囲気のため、観客には感じさせないようにしていますが、現代で言うと、言葉は悪いですが、バンドマンやホストに貢ぐために水商売をしている女性のような感じがあります。
それは、ステファンと再会するところにも表れています。おそらく、ステファンを探して、周到に出会いを創りあげたことが、映像から感じられます。丁度、出待ちをするバンギャのように。
そして、リーザは彼のことは何でも知っているのだから、ステファンが惹かれるのも当然です。そう、「推し」に関することは何でも知っている。これは、自分にとっての推しを見つけた女性が、推しに接近していく物語なのです。
彼女のナレーションでは、そうした裏の部分は当然語られないので、どこか、上品な古きよきウィーン情緒だけが流れていきます。
2人のデートシーンで一番面白いのは、列車のコンパートメントのような場所です。背景に様々な観光地の絵が流れていく、疑似観光を楽しめるアトラクションです。
そこで会話することで、2人の出自や、どこか夢想的な性格が、よく伝わってきます。「ハリボテ=イメージ=偶像」の背景もまた、そんな2人を、うまく象徴しているように思えます。
しかし、2人はふとしたことで離れ離れに。そして、10年近く経ち、リーザは裕福な将軍と結婚し、息子もいます。
そんなある日、オペラに行ったその劇場で、彼女はステファンを見つけてしまいます。
かつては天才ピアニストと持て囃された彼は、今では、もう終わった存在として、人々に嘲笑されています。
彼女は劇場を抜けます。そこで彼と再会するのです。彼はリーザの顔を覚えていませんでした。そして、彼女は一つの決断をします。
その決断が何なのか。2人はどうなったのか。そして、ステファンが手紙を全て読み終わった時に何が起こるのか、は是非ご覧になって、確かめていただければと思います。
この作品は、リーザという女性が身を引いていくさまが、弱々しく、主体性がなく、男にとって都合がいいだけという批判もありました。しかし、リーザにとって、ステファンは恋人というより、推しなのだと考えると、納得がいきます。
実際、リーザはステファンに生活を改めるようにと言ったりはしない。自分が推しを変えるのは怖い。あくまで、リーザにとってステファンはアイドル=偶像なのです。
そして、この作品の素晴らしさは、そんな偶像もまた生きた人間であることをしっかり示すことです。
劇場で再会した時、没落したステファンは、リーザを思い出せません。荒れた生活のせいでしょう。しかし、リーザに暗闇の中でこう語り掛けます。
彼は大事な女性を思い出せない。それでも、確かに、大事だった感触だけは覚えている。
彼は本当は、自分の理想の何かを求め続けていた、しかし、堕落した生活に負け、全てを失ってきた。そんなことがよく分かる、秀逸かつ残酷な場面です。
では、なぜ、リーザは、こんな推しを愛し続け、彼女もまた全てを捨て続けるのか。それは、彼女が恋愛体質だからでも、意志薄弱だからでもありません。
その理由は、手紙の冒頭に、彼女自身が書いています。
ステファンと会った日に、彼女の人生は始まった。彼が見せてくれたのは、美しい、自分にとって生きるに値する、未知の世界だった。だからこそ、その夢を見させてくれた「推し」のためなら、人生を捨てても何も惜しくない。
彼女は、愛によろめく弱い人間ではありません。自分の人生を始めさせてくれた、人生以上の存在に、最後まで忠実でいようとしたのでしょう。そして、それが本当の「推し」というものなのかもしれません。
そんな人生を賭けた「推し活」の 究極の心理を、流麗に描いたこのメロドラマ。是非一度ご覧になっていただければと思います。
今回はここまで。
お読みいただきありがとうございます。
今日も明日も
読んでくださった皆さんにとって
善い一日でありますように。
次回のエッセイでまたお会いしましょう。
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