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生と死からの解放

【生もなく死もない世界】
「空」とは、何もない世界というよりも、それぞれ独立した存在はありえないというのが、ティクナットハン禅師の教えだ。これは釈迦も唱えた原典的な教えに基づいている。

波に、生と死があるのか。始まりと終わりがあるのか。高い波低い波、大きい波小さい波と比べるから、苦しみが生まれる。
諸行無常、物事は常に変化していく。しかし波はどんなに変化しても、水であることには変わりない。
そして、水は、雲になり、雹になり、風になり、木々になり、私たちになる。波は波で独立しているわけではなく、それ以外の全てに存在している。

生まれるとは、オギャーと生まれることを指すのか。否。死ぬとは、息を引き取ることを指すのか。否。
生まれる前から存在し、死んでからも存在し続ける。それが見えてくる。

死ねば永遠の別れなのか。否。それは、それ以外の全てに存在しているもの。悲しさは、悲しさだけで存在してない。それ以外の全ての優しさで成り立っているもの。それを感じられるのか。

生きることも死ぬことも、一つの波の現象。私たちは、本質なる水に目を向けなければならない。

生と死を見つめ続けてきた自身の絵画は、いよいよもって生と死から解放されて、天国を越えて。
始まりや終わりもない、
死もなく、恐れもない、
喜びも、悲しみもない、
それぞれ単独では成り立たない、全てが調和して包括されているような世界を描く準備に取りかかる時がきている。
空は、水すらもない、ということではないのだ。波は変化すれど、波であることに変わりなく、しかし同じ波ではない。基本的な水であったとしても、その水も形を変えていく。
なかなかに理解が難しい。観察し続けるしかない。

目の前の紫陽花をよく観察すれば、風が見え、太陽が見え、土が見えてくる。そうして手入れする人間が見え、その家族が見え、紫陽花を活ける部屋が見える。それをカフェから見る自分が見え、目の前のコーヒーの味と家族の表情すらも、紫陽花に包括されている。
紫陽花は紫陽花単独で存在できるはずもないから、紫陽花は紫陽花ではなく全てのもの。しかしながら、やはり目の前の紫陽花は紫陽花であることは間違いない。それは、紫陽花、という固有名詞ではなく、知識でもなく。一つの目の前にある現象として。

そんなことを、描きたいのだ。

結果は、9月から開催される盛岡の「旧石井県令邸」にて。

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画家・ペーの日記
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