空間の美しさとは? Part.2
フィリッポなくして、フィレンツェは形成せず。
フィリッポ・ブルネレスキが、遠近法を発明したのが1416年頃。2年後にクーポラのコンクールが行われ、彼の案が採用されます。
両手放しで、喜ぶことはできない条件はあるけども、とりあえず、現場監督として、1420年からクーポラの建設が始まります。
こちらが、ブルネレスキの建築記。
中世の面影を残すフィレンツェの街に、ダイナミックでシンプルな建造物が、自己主張することなく溶け込み、新しい時代へと繋いでいきます。フィリッポ・ブルネレスキは、まさに初期ルネッサンス時代の寵児。
かつてみない、まったく新しいタイプの建造物の建設現場に居合わせた、そのときに生きていた民衆は、なにを思い、なにを感じたんでしょう。
フィレンツェ人の辛辣な批判精神は、いまも健在ですが、あらゆる街角で、あーだ、こーだと、論争していたのかもしれません。
同時に、そんな、真新しいことに挑戦する、自分たちの国に誇りをもち、歓喜に満ちた心で、少しづつクーポラの形ができあがる姿を、見守っていたんじゃないかぁ。と、想像します。
捨て子養育院
1300年代までの公共事業といえば、教会や市庁舎の建築。1400年代に入ると、いまでいう、QOL(クオリティ・オブ・ライフ)の向上にも力を入れるようになります。
当時のフィレンツェ共和国の書記局長で、歴史家の顔も併せ持つ、レオナルド・ブルーニが、顎に手を当て、じっと考え込んでいた。
彼の提案のもと、それまでの施設よりも、ずっと大きく、衛生的にもきれいな、捨子養育院が建設され、組織だって、フィレンツェ共和国が子供を育てるようになります。
あれ?メディチ家は? と思われる方もいるかもしれません。メディチ家で最初に頭角を表すのは、老コジモ。彼の政治は、結果的に1年の、ベニスへの追放を経た翌年1434年から始まります。1419年は、まだ共和制のフィレンツェなのです。
フィレンツェ商業組合のなかで最も歴史のある、羊毛&輸入毛織り物組合は、洗礼堂の維持や改築の担当。
飛ぶ鳥を落とす勢いの、毛織り物組合は、ドゥーモの建築担当。
我々、シルク組合も、なにかに貢献したいものだ。
申し出たのは、大組合のひとつ、シルク組合。
そんな経緯があり、ブルネレスキは、捨て子養育院の建設に取り掛かります。フィレンツェで、彼が解釈する、新しい「美」が生まれようとしています。
ローマ滞在中は、古代ローマの遺跡を掘り起こしては研究に耽り、フィレンツェに戻ってからは、遠近法を発明したブルネレスキ。
このどちらもを取り入れた、広場の幅いっぱいの、回廊風の細長い建物を完成させます。まるで定規で線を引いたような、端正な立ち姿。
装飾はほとんどなし。オフホワイトとグレーの2色を使い、建物のプロポーションを際立たせています。円柱で繋ぐ回廊は、古代ローマっぽいけど、ずっと、バランス良くみえます。なぜでしょう。
下図のように、円柱と円柱の幅「a」を基準に、建物全体が計算されているのです。柱と柱を結ぶアーチのちょうど中央にある窓が、全体を引き締めています。
下図は、捨て子養育院の平面図です。オレンジ色で囲んである「4」を見てください。回廊の部分です。
円柱から壁までの奥行きも同じ幅になっていて、正方形の空間が造られています。実際に、回廊の中に入ってみると、こんな感じ。
遠近法のなかにいるみたい。洗礼堂に通じる、数字に裏付けされた、安定の美しさ。
人工のものなのに、自然に近い、調和の取れた空間を感じます。
施設を運営するにあたり、機能性は大切。だけど、それだけじゃ完成じゃないんですね。心の栄養になる、美しいデザインも、大切。
それに、美しいものが出来上がれば、民衆は喜び、組合の評判も上がります。反対に、不出来だと、立ち直れないくらい、けなされ、面目丸潰れ。
組合同士も、依頼を受ける工房も、それぞれがライバルで、切磋琢磨を繰り返し、お互いを高め合う、ポジティブなパラレルワールドが生まれていたのです。
サンロレンツォ教会
ここもすごいんです。
サンロレンツォ教会は、メディチ家本家の菩提寺として、小さな教会を、ブルネレスキに依頼して建て替えさせたもの。
彼が好んでいた、グレーのセレーナ石と、オフホワイトの漆喰の、2色のカラーで統一されています。
見よ!この均整の取れた顔立ち。捨て子養育院と同じような、美しいプロポーション。
フレスコ画を壁や柱に描いて装飾するところを、一切排除し、縦線、横線、アーチ、方眼状の床面を、グレーのたった1色で際立たせることで、空間美を演出しています。
下の写真は、主祭壇から、正面玄関に向かって撮影したところ。
1枚目の教会の写真は、正面玄関上のバルコニーから撮影したもの。普段は入れませんが、たまに、特別見学を実施しています。ちなみに、正面玄関とバルコニーは、ブルネレスキではなく、ミケランジェロの作品。
Part.1で、マザッチョが聖三位一体を描くときに、ブルネレスキにアドバイスを求めたという、エピソードがありました。
手持ちの写真がなかったので、参考にした資料から、教会内部の様子。
下図が、マザッチョの聖三位一体。ね、似てるでしょう。面白いですねー。繋がっていますねー。
旧聖具室
一方、教会内にある旧聖具室は、見飽きる、居飽きる、ことがありません。
しばらく天井を見上げてる訪問者。
すごく統一された厳格な空間でありながらも、円の中心からこぼれ落ちる光が、柔らかく室内を照らし、森林にでもいるような、穏やかな気持ちになります。
旧聖具室の床面『L』と、アーチまでの高さ『h』が同じ寸法で、キューブ型。丸天井は、高さの半分。
星座が描かれている青く小さな丸天井(黄色部分)は、大きな丸天井の4分の1。
ここでも慎重に計算し尽くした数字の比率を、投影しています。
新聖具室
旧聖具室と呼ばれているからには、新聖具室もあります。
時は移り1520年。ここで登場するのは、ミケランジェロ・ブオナロッティ。サンロレンツォ教会の西側に、メディチ家から依頼され、メディチ家礼拝堂が造営されます。
旧聖具室の姉妹バージョンのように、新聖具室が造られ、ロレンツォ豪華王と弟のジュリアーノが埋葬されています。
新聖具室も四角と円がメイン。グレーと白のブルネレスキ・カラーで全体を統一しながらも、ミケランジェロのエッセンスが、キーンと緊張するような空間を生み出しています。
丸天井に隣接する窓が、台形に見えますが、目の錯覚じゃなく、わざと、そうなっています。上から見上げた時に、より高い空間に感じるように、考えられているのです。
ミケランジェロには「妥協」という言葉は存在しない。スミからスミまで、考え抜かれた構成。
教会のファサードも、ミケランジェロが担当するはずでしたが、途中で中止になり、いまも、そのままの姿で建っています。
何日もかけて、大理石を選び、カッラーラからフィレンツェまで船で運ぶだけだったところでの、工事中止。ミケランジェロも、さぞや悔しったでしょう。
パッツィ家の礼拝堂
ゆくゆくは、メディチ家を滅亡させようと暗殺を試みる、パッツィ家。まだこの時代は、手と手を繋いで、仲良しこよし。
やっと旧聖具室を造り終えたフィリッポ。やれやれと、息をつく暇もなく、翌年には、パッツィ家の礼拝堂に着手します。
ただ、この礼拝堂、費用不足で、すぐには工事開始ならなかった。さらに何度か頓挫し、約半世紀の49年間をかけて完成します。
ようやく完成して、「これがオレ達の礼拝堂!」と披露できるはずだったのに、奇しくも1478年。パッツィ家の滅亡の年。
メディチ家暗殺を計画し、ロレンツォ豪華王は命拾いするも、弟のジュリアーノは、刃に倒れ帰らぬ人となります。
怒り心頭のロレンツォ豪華王。ことごとくパッツィ家を死刑もしくは追放にし、フィレンツェからパッツィ家を消し去ります。
フィリッポは、すでに天国の人。このような物語を知るよしもありません。
サントスピリト教会
ブルネレスキの最後の仕事は、サントスピリト教会の立て直し。アルノ川の対岸にあり、顔の部分が、のっぺりした、なにもない装飾が個性的。
デザイン案はあったけど、紛失してしまい、そのまま、現在に至る。「イタリアあるある」事例のひとつ。
教会内部は、サンロレンツォ教会に通じるような、グレーと白を基調にした、ブルネレスキ仕上げ。
メディチ家の菩提寺より大きいと、いろいろ面倒なので、サンロレンツォ教会より小さめです。
フィレンツェの都市計画
街を歩いているだけで美しいって、すごいことだと思います。先人が街を守ってきたからこその美観。
便利だから、宣伝になるからと、派手な装飾をすることもなく、ホテルや美術館の看板でさえ、目立たないように配慮されています。
空間の美しさは、絵画1枚や、モニュメント1つなど、単体でなく、空間全体で統一感を持つことで調和が整い、生まれるのではないでしょうか。
向かって右手が捨て子養育院。中央がマリア様の教会。左手は「マリア様のしもべの会(Servi di Maria)」の建物。
1800年代に印刷されたものですが、いまでも同じ景観です。広場を囲むアーチが回廊のように美しい、サンティッシマ・アヌンツィアータ広場です。
フィレンツェのシンボルである、クーポラは、116.50メートルあります。これ以上高い建物を建ててはいけない条例があるので、街で一番高い建物です。
そのために、蕾のように美しいクーポラが、四方の丘から見下ろすことができます。
Part.3では、ブルネレスキの大仕事、大聖堂のクーポラに触れたいと思います。
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参考文献と一部写真掲載
Itinerario nell'arte
Editore Zanichelli