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空間の美しさとは? Part.2

フィリッポなくして、フィレンツェは形成せず。


フィリッポ・ブルネレスキが、遠近法を発明したのが1416年頃。2年後にクーポラのコンクールが行われ、彼の案が採用されます。

両手放しで、喜ぶことはできない条件はあるけども、とりあえず、現場監督として、1420年からクーポラの建設が始まります。

こちらが、ブルネレスキの建築記。

1419年 捨て子養育院
1420年 クーポラ着工
1421年 サンロレンツォ教会と旧聖具室
1429年 パッツィ家の礼拝堂
1436年 クーポラ完成
1444年 サントスピリト教会
1446年 没

中世の面影を残すフィレンツェの街に、ダイナミックでシンプルな建造物が、自己主張することなく溶け込み、新しい時代へと繋いでいきます。フィリッポ・ブルネレスキは、まさに初期ルネッサンス時代の寵児。

かつてみない、まったく新しいタイプの建造物の建設現場に居合わせた、そのときに生きていた民衆は、なにを思い、なにを感じたんでしょう。

フィレンツェ人の辛辣な批判精神は、いまも健在ですが、あらゆる街角で、あーだ、こーだと、論争していたのかもしれません。

同時に、そんな、真新しいことに挑戦する、自分たちの国に誇りをもち、歓喜に満ちた心で、少しづつクーポラの形ができあがる姿を、見守っていたんじゃないかぁ。と、想像します。

捨て子養育院

1300年代までの公共事業といえば、教会や市庁舎の建築。1400年代に入ると、いまでいう、QOL(クオリティ・オブ・ライフ)の向上にも力を入れるようになります。

当時のフィレンツェ共和国の書記局長で、歴史家の顔も併せ持つ、レオナルド・ブルーニが、顎に手を当て、じっと考え込んでいた。

いまの施設では手狭じゃ。捨て子場は、吹きさらしで、寒い冬は朝まで生きられん子もいる。子供は、国の宝。両親がいないのであれば、国で育てようではないか。

北側にあるマリア様の教会の広場が空いているから、あそこに養育院を建設はできないものかのぉ。

彼の提案のもと、それまでの施設よりも、ずっと大きく、衛生的にもきれいな、捨子養育院が建設され、組織だって、フィレンツェ共和国が子供を育てるようになります。

あれ?メディチ家は? と思われる方もいるかもしれません。メディチ家で最初に頭角を表すのは、老コジモ。彼の政治は、結果的に1年の、ベニスへの追放を経た翌年1434年から始まります。1419年は、まだ共和制のフィレンツェなのです。

建築担当はブルネレスキに決まったが、さて、建設費はどうしたものか。

フィレンツェ商業組合のなかで最も歴史のある、羊毛&輸入毛織り物組合は、洗礼堂の維持や改築の担当。

飛ぶ鳥を落とす勢いの、毛織り物組合は、ドゥーモの建築担当。

我々、シルク組合も、なにかに貢献したいものだ。

ブルーニ殿。我らに建てさせてください。

申し出たのは、大組合のひとつ、シルク組合。

あらゆる境遇で捨て子養育院に入ってくる子供達に、シルク産業のノウハウを教えます。

子供達が成長すれば、大切な人材として、我々の業界に、貢献してくれるようになるでしょう。ひいては、国も潤うというものです。


そんな経緯があり、ブルネレスキは、捨て子養育院の建設に取り掛かります。フィレンツェで、彼が解釈する、新しい「美」が生まれようとしています。

ローマ滞在中は、古代ローマの遺跡を掘り起こしては研究に耽り、フィレンツェに戻ってからは、遠近法を発明したブルネレスキ。

このどちらもを取り入れた、広場の幅いっぱいの、回廊風の細長い建物を完成させます。まるで定規で線を引いたような、端正な立ち姿。

装飾はほとんどなし。オフホワイトとグレーの2色を使い、建物のプロポーションを際立たせています。円柱で繋ぐ回廊は、古代ローマっぽいけど、ずっと、バランス良くみえます。なぜでしょう。

下図のように、円柱と円柱の幅「a」を基準に、建物全体が計算されているのです。柱と柱を結ぶアーチのちょうど中央にある窓が、全体を引き締めています。

下図は、捨て子養育院の平面図です。オレンジ色で囲んである「4」を見てください。回廊の部分です。

円柱から壁までの奥行きも同じ幅になっていて、正方形の空間が造られています。実際に、回廊の中に入ってみると、こんな感じ。

遠近法のなかにいるみたい。洗礼堂に通じる、数字に裏付けされた、安定の美しさ。

人工のものなのに、自然に近い、調和の取れた空間を感じます。

施設を運営するにあたり、機能性は大切。だけど、それだけじゃ完成じゃないんですね。心の栄養になる、美しいデザインも、大切。

それに、美しいものが出来上がれば、民衆は喜び、組合の評判も上がります。反対に、不出来だと、立ち直れないくらい、けなされ、面目丸潰れ。

組合同士も、依頼を受ける工房も、それぞれがライバルで、切磋琢磨を繰り返し、お互いを高め合う、ポジティブなパラレルワールドが生まれていたのです。

サンロレンツォ教会

ここもすごいんです。

サンロレンツォ教会は、メディチ家本家の菩提寺として、小さな教会を、ブルネレスキに依頼して建て替えさせたもの。

彼が好んでいた、グレーのセレーナ石と、オフホワイトの漆喰の、2色のカラーで統一されています。

見よ!この均整の取れた顔立ち。捨て子養育院と同じような、美しいプロポーション。

フレスコ画を壁や柱に描いて装飾するところを、一切排除し、縦線、横線、アーチ、方眼状の床面を、グレーのたった1色で際立たせることで、空間美を演出しています。

下の写真は、主祭壇から、正面玄関に向かって撮影したところ。

1枚目の教会の写真は、正面玄関上のバルコニーから撮影したもの。普段は入れませんが、たまに、特別見学を実施しています。ちなみに、正面玄関とバルコニーは、ブルネレスキではなく、ミケランジェロの作品。

Part.1で、マザッチョが聖三位一体を描くときに、ブルネレスキにアドバイスを求めたという、エピソードがありました。

「オレがいま作っている教会の、こんな感じにしてみたらどうかな。」

手持ちの写真がなかったので、参考にした資料から、教会内部の様子。

下図が、マザッチョの聖三位一体。ね、似てるでしょう。面白いですねー。繋がっていますねー。

旧聖具室

一方、教会内にある旧聖具室は、見飽きる、居飽きる、ことがありません。

しばらく天井を見上げてる訪問者。

いち、に、さん、し、、、円が12等分されていて、三等分した縦と横に走る線が、四方の壁のちょうど中央にくるようになっているのかぁ。あー、首が痛い。

すごく統一された厳格な空間でありながらも、円の中心からこぼれ落ちる光が、柔らかく室内を照らし、森林にでもいるような、穏やかな気持ちになります。

旧聖具室の床面『L』と、アーチまでの高さ『h』が同じ寸法で、キューブ型。丸天井は、高さの半分。

星座が描かれている青く小さな丸天井(黄色部分)は、大きな丸天井の4分の1。

ここでも慎重に計算し尽くした数字の比率を、投影しています。

新聖具室

旧聖具室と呼ばれているからには、新聖具室もあります。

時は移り1520年。ここで登場するのは、ミケランジェロ・ブオナロッティ。サンロレンツォ教会の西側に、メディチ家から依頼され、メディチ家礼拝堂が造営されます。

旧聖具室の姉妹バージョンのように、新聖具室が造られ、ロレンツォ豪華王と弟のジュリアーノが埋葬されています。

新聖具室も四角と円がメイン。グレーと白のブルネレスキ・カラーで全体を統一しながらも、ミケランジェロのエッセンスが、キーンと緊張するような空間を生み出しています。

丸天井に隣接する窓が、台形に見えますが、目の錯覚じゃなく、わざと、そうなっています。上から見上げた時に、より高い空間に感じるように、考えられているのです。

ミケランジェロには「妥協」という言葉は存在しない。スミからスミまで、考え抜かれた構成。

教会のファサードも、ミケランジェロが担当するはずでしたが、途中で中止になり、いまも、そのままの姿で建っています。

何日もかけて、大理石を選び、カッラーラからフィレンツェまで船で運ぶだけだったところでの、工事中止。ミケランジェロも、さぞや悔しったでしょう。

パッツィ家の礼拝堂

いいなぁ。僕にも同じようなものを作って!おねがい、フィリッポ!

ゆくゆくは、メディチ家を滅亡させようと暗殺を試みる、パッツィ家。まだこの時代は、手と手を繋いで、仲良しこよし。

やっと旧聖具室を造り終えたフィリッポ。やれやれと、息をつく暇もなく、翌年には、パッツィ家の礼拝堂に着手します。

ただ、この礼拝堂、費用不足で、すぐには工事開始ならなかった。さらに何度か頓挫し、約半世紀の49年間をかけて完成します。

ようやく完成して、「これがオレ達の礼拝堂!」と披露できるはずだったのに、奇しくも1478年。パッツィ家の滅亡の年。

メディチ家暗殺を計画し、ロレンツォ豪華王は命拾いするも、弟のジュリアーノは、刃に倒れ帰らぬ人となります。

怒り心頭のロレンツォ豪華王。ことごとくパッツィ家を死刑もしくは追放にし、フィレンツェからパッツィ家を消し去ります。

フィリッポは、すでに天国の人。このような物語を知るよしもありません。

サントスピリト教会

ブルネレスキの最後の仕事は、サントスピリト教会の立て直し。アルノ川の対岸にあり、顔の部分が、のっぺりした、なにもない装飾が個性的。

デザイン案はあったけど、紛失してしまい、そのまま、現在に至る。「イタリアあるある」事例のひとつ。

教会内部は、サンロレンツォ教会に通じるような、グレーと白を基調にした、ブルネレスキ仕上げ。

メディチ家の菩提寺より大きいと、いろいろ面倒なので、サンロレンツォ教会より小さめです。


フィレンツェの都市計画

街を歩いているだけで美しいって、すごいことだと思います。先人が街を守ってきたからこその美観。

便利だから、宣伝になるからと、派手な装飾をすることもなく、ホテルや美術館の看板でさえ、目立たないように配慮されています。

空間の美しさは、絵画1枚や、モニュメント1つなど、単体でなく、空間全体で統一感を持つことで調和が整い、生まれるのではないでしょうか。

向かって右手が捨て子養育院。中央がマリア様の教会。左手は「マリア様のしもべの会(Servi di Maria)」の建物。

1800年代に印刷されたものですが、いまでも同じ景観です。広場を囲むアーチが回廊のように美しい、サンティッシマ・アヌンツィアータ広場です。

フィレンツェのシンボルである、クーポラは、116.50メートルあります。これ以上高い建物を建ててはいけない条例があるので、街で一番高い建物です。

そのために、蕾のように美しいクーポラが、四方の丘から見下ろすことができます。

Part.3では、ブルネレスキの大仕事、大聖堂のクーポラに触れたいと思います。

最後までお読みいただき
ありがとうございます。

シリーズはこちらです
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参考文献と一部写真掲載
Itinerario nell'arte 
Editore Zanichelli


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