トスカーナの山奥にある、絵の村。 n.2
n.1では、カーゾリ村の心温まる村里アルバム壁画などを紹介しましたが、今回は彼らの知られざる歴史から村に近づきます。
海と村と、気球。
カーゾリ村の壁は、歴史も語る。左から右に連なる連作。
最初の一枚。日傘を差した2人の女性が描かれている背後の建物。Grand Caffe (グラン・カフェ)と書かれている。どこかで見た。どこだったろうと、記憶を辿り思い出した。海岸沿いのヴィアレッジョという街のメインストリートにいまも建っている、あの建物だ。
1900年代初期は、ヴィアレッジョの最も輝かしい時代。リバティ様式の建物をあちこちで見ることができる。リバティ様式とは、イタリアのアール・ヌーヴォー様式を表す。
2枚目の「CANDALLA(カンダッラ)」は、カーゾリ村と同じ地区にあり、清流が流れる美しい地の名前。その右脇には、仲睦まじく寄り添い合うカップルが見える。乗っているのは気球のようだ。
3枚目は、気球がロープのようなものを伝い山の頂上まで移動している。カーゾリ1910年と描かれ、記念コインのようなものも見える。中央に書かれている、PALLONE FERNATOとは?
まずはコインから調べてみよう。ALEMANNO E DANIELE BARSI。アレマンノ&ダニエレ・ブラシ。人名から検索してみると、絵と同じコインを掲載しているページが見つかった。
記念切手も作られていた!
海の街ヴィアレッジョから、カーゾレ村のあるアプアーネ山頂まで、気球で連結していた!?
ヴィアレッジョからカンダーラまで車で行き(黒線)、Matannaマタンナ別荘までの最後の険しい山道は、ロゼッタと呼ばれる気球が運行していた(オレンジ色の点線)!?
1900年初期に時を遡ってみよう。
ヴィアレッジョは連日、世界各国から避暑に訪れる富裕層で賑わっている。山頂にあるマタンナ別荘の当主アレマンノは、どうすればヴィアレッジョの客を呼び寄せられるか頭を悩ませていた。
オレがなんとかするよ。ちょっと考えがあるんだ。
とは息子のダニエレ。
完成したのは、オンダ洞窟から別荘までを往復させる気球。1910年8月に初就航。直径14メートルの気球を、直径27ミリの鉄のロープに繋げ運行させている。最大収容人数は6名で、それに運転手ひとりを乗せた合計7名が乗れる。
PALLONE FERNATO con Cavo di Guida.書かれているのは、ロープにより(Cavo di Guida)、ブレーキをかけながら(FERNATO)、動く気球(PALLONE)という意味になるだろう。
気球名には、ダニエレの奥様の名前「ロゼッタ」が命名された。
奇想天外な気球を使うことにより、広告効果も見込まれ、この地を訪れる世界の富裕層の紳士淑女が海と山の避暑地の行き来を楽しんだ。そのなかには、欧州の王族を筆頭に、世界の名だたる科学者、教授、貴族、詩人なども名を連ねていた。別荘の当主であるアルマンノも満面の笑みであったろう。
ただ、常に危険を孕んでいたことは確かだ。就航から1年後に就航が途絶えてしまう。冬に大嵐に見舞われ、気球を支える支柱や鉄のロープが、大きな音を立てて倒壊してしまったからだ。それ以降、再建することはなかった。
たった1年の就航で、気球の費用や建設費を賄えることができたのであろうか。その後、アルマンノの別荘には、変わらずお客が訪れたのであろうか。余計な心配をしてしまう。
ほとんど忘れ去られた歴史とは言え、記念コインや記念切手、さらにカーゾリ村の絵を通して、アレマンノ&ダニエレ・ブラシ親子の名は歴史の1ページに刻むことになる。
しかし、ほかに手段はなかったのか。と考えずにはいられない。
そんな歴史があったとは、カーゾレ村に来るまでまったく知らなかった。知っている人の方が少ないのではないかと思う。
オリンピックと射撃と、金メダル。
こちらもやはり歴史の出来事のひとつ。2016年リオデジャネイロ・オリンピックの射撃競技で、フィレンツェ出身のニコロ・カンプリアーニが金メダルを獲得。
左隣に描かれているジャンピエロ・パルディーニ氏。この土地に生まれ、自身も射撃選手だったが、その後、競技用のピストルを開発し会社を設立。現在もパルディーニ社の責任者である。ニコロ・カンプリアーニは、パルディーニ社のライフルでメダルを獲得している。
2020年に開催された東京オリンピックで、パルディーニ社のライフルは、金メダル2枚、銀メダル3枚、銅メダル2枚に貢献している。そんな国際的に有名な会社が、ミラノやローマなどの都市に本社を置かず、カーゾレ村が属するカマイオーレ市にあるというのも、郷土愛の深いイタリアらしい。
扱い店は世界各国にあるが、パルディーニ本社へ訪れるには、わざわざトスカーナの田舎まで出向かなければならないのである。
『オリンピック、射撃、金メダル、銃器会社。』これらのキーワードと、人口200人にも満たない、山間のカーゾレ村を誰が結びつけようか。
村を訪れ、絵と出会い、表にはなかなか出てこない、知られざる歴史を知ることができる。なんて面白いんだろう。敢えて細かく説明してないのが、またいい。
興味を持った人は、自分で調べて知る。受け身ではなく、能動的に行動することにより得られる知識というのも、楽しいものである。
コロナ禍の様子を描いた作品。これも歴史の一片である。壁画は、この建物が倒壊しない限り、永遠にここにある。後世の人々は、この絵を見てなにを学び、なにを感じるのだろう。
落書き。グラフィテイ。いや、グラッフィートです。
いままで見てきた絵。絵ではあるけど、描いてはいない。
「グラッフィート(Graffito)」または「ズグラッフィート(Sgraffito)」と呼ばれる技法が用いられている。
辞書で調べると「落書き、掻き絵、[美]線影、陰影線」の意味。『落書き』の英語読み『グラフィティ』の語源となったと考えられる。
フレスコ画と同じように、漆喰を壁に塗り込むのは同じだが、フレスコ画の場合は、生乾きの漆喰のところに水で溶いた顔料で絵を描いていく。一方、グラッフィートは、二層の漆喰を用いる。一層目は茶色だったり黒色だったり、濃い色を塗り、乾いたら白色系の漆喰を重ね塗りする。
プチプチと穴を開けた点描状態にした下絵を、重ね塗りをした漆喰が乾き切らないうちに移し、その後に、鉄製などの硬い道具で「引っ掻いて」作品を完成させていく手法である。
引っ掻く場所を間違えてしまっても、訂正をすることは不可能。漆喰を塗るところからやり直さなければならない。
一見は百聞にしかず。興味のある方は、こちらの動画をご覧下さい。1分18秒からグラッフィート技法の説明があります。
グラッフィートは、1500年代のルネッサンス期に流行した技法で、フィレンツェでも見つけることができる。
ここはメディチ家当主の愛人ビアンカ・カペッロの屋敷。メディチ家本宅であるピッティ宮殿と並行するマッジョ通りに建っており、壁はとても凝ったグラフィートで装飾されている。
往来の激しい通りにありながら、1570年から制作された、豪華な装飾をいまも変わらず見ることができる。
余談だが、この邸宅を建ててもらったビアンカ・カペッロは、正妻が早逝したので、メディチ家当主フランチェスコ1世の後妻となる。フィレンツェ民衆からは非難の嵐。弟のフェルディナンド1世も、ベニス出身のビアンカが気に食わず、気弱で頼りない兄とともに、別荘にて毒殺してしまう。メディチ家にまつわる陰惨な物語のひとつである。
政治にまったく興味のなかった兄に代わり、弟のフェルディナンド1世が統治した時代は宮廷文化が華やぎ、フィレンツェは、今一度輝きを取り戻すようになる。ちなみに、兄殺しの真実が証明されるのは今世紀に入ってからである。
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そろそろカーゾリ村に戻りましょう。
そんな歴史あるグラフィート手法で絵を制作するのも、このイベントの重要な要素であり特徴である。村おこしという目的もあるが、伝統文化を守る継ぐために、スプレーなどを用いて絵を描くのではなく、敢えてグラフィート手法のみで、カーゾリ村の絵は制作されている。
グラフィート手法に制限されているゆえに、新しい試みも考案されていくのだろう。こちらの可愛らしい絵は、下地に青や赤色を用いて、カラフルに仕上げている。
村のいろいろ。
水道メーターが入っているのだろうか。いちいち、ひとつひとつが凝っている。
下界へ降りないと、いろいろなものを調達できない不便さもあるだろうが、この村の存在を教えてくれた肉屋の息子さんが、胸を張って自分の村を教えてくれたことを思い出した。
こちらは村のバール。なんでも屋。バールの看板も、もちろんグラフィート。
生活のなかに普通にアートがあり、外に目を移せば緑に囲まれた環境。200人にも満たないであろうカーゾリ村には、現在、さまざまなアーティストが住み移り活動を行っているそうである。
村の壁には「カーゾリ村。グラッフィーティの村。」書かれている。
どこに何が描かれているか、番号が振られている。
地図の右下の赤丸がカーゾリ村。山の尾根が続いているのが分かる。
山間の村でありながら、わざわざ足を運ぶ人が絶えないカーゾリ村。村人達の発想と努力の賜物でしょう。イタリアの小さな村の底力を感じる訪問となりました。
こんな小さな村が、まだまだあるんだろうなぁ。
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最後までお読みくださり
ありがとうございます!
またお会いできたら嬉しいです☺️
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