ゾマーさんのこと パトリック・ジュースキント
ゾマーさんはいつも歩いている。難しい顔をして、脇目も振らず、肩を越すほど長いステッキを推進力にして、猛烈なスピードで歩いている。
ぼくが木登りをしたり、女の子に恋をしたり、いやいやピアノを習ったりしている間、上機嫌で自転車に乗ったりしている間にも、ゾマーさんは黙ってずっと歩いている。
あまりにいつも歩いているものだから、その姿を目にしても、誰もそれを話題にしたりしない。「ほら、ゾマーさんが歩いて行くよ」なんて、あえて言うようなことではないのだ。
景色に同化したかのようなゾマーさんだけれど、ぼくはその姿を追わずにはいられない。ゾマーさんが歩く姿は、黒く寂しく厳しい陰のように、ぼくの視界を横切っていく。
追われていて、逃げていて、怯えている。体全体で何かを拒否しているかのように感じられる。
ぼくが唯一、はっきりと聞いたゾマーさんのことば。それは「ほっといてもらいましょう!」だ。
この一言が後に、ぼくとゾマーさんとの間に、大きな秘密を作る。
ゾマーさんは、(殊更にこんな言葉を使うのだが)不幸な人だ。なぜそんなにも歩かなければいられないのか、理由が書かれてはいない。しかし凝り固まった孤独や悲哀に、息も絶え絶えになっているのはわかる。なんだか身につまされて、こちらも息が詰まってくる。
そして最後、もう歩かなくてもよくなったゾマーさんを思うと、じわじわと安堵の気持ちが押し寄せる。お腹から喉元までせり上がった冷たい塊が、解けていくようだ。
ジャン=ジャック・サンペが描く挿絵は、可愛らしくちょっと戯画的で、小さくてきれいな装丁のこの本にとても似合っている。ぼくの世界はカラフルなパステルトーンで、そこにゾマーさんが纏うモノトーンの空気が混じる。その対比が美しい。
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