綺麗なものは美しくない。なんか汚い。作為を持って物を作ること、人に届く形を意識すること、整えて編集すること、商業の世界ならわかるけれど、アートの世界ではそういうの、否定はしないけど俺個人は否のスタンスでいたい。いや、単に興味がないだけかもしれない。人から褒められるとか、お金が稼げるとか、そういうのは論外ですって宮崎駿も言ってたな。なにかのための創作じゃなくて、創作のための創作でありたい。別にピュアとか真摯とかそんなワードをテーマに据えたいわけじゃなくて、普通の感覚が嫌い。だっ
最近、自分の中で引っかかっている疑問がある。どうして多くの人は、自分の好きなことを見つけたらすぐに「これで何者かになろう」とか、「職業にしよう」みたいに考えるのだろうか?まるで、「これでいける」と思った瞬間、何かに向かって全力で走り出すような感じがする。 俺自身も絵を描くことが好きだ。でも、やる気が出たら描くし、飽きたら描かない。絵が売れたり、作家として成功できたらそれはそれでありがたいけど、別にそれを目的にしてるわけじゃない。もちろん、作品を見せることもあるけど、誰かに見
僕の作品には一貫したコンセプトやテーマはない。制作はまるで自動書記のような感覚だ。自分で選択しているというより、次にすべきことが自然と閃いて、その流れに身を任せているだけだ。たとえば、将棋で無意識に最適な一手が浮かぶような感覚。二手三手先は見えないけど、とりあえず次の一手はわかる。そんな感じで、作品は形になっていく。 僕はこのプロセスを「道」と呼んでいる。足元とその一歩先だけが光に照らされていて、その奥は暗闇だけど、道が続いていることは感じられる。ただ足元を見つめ、照らされ
音楽が好きだ。これは本当にシンプルな感情で、素晴らしい音楽を作り出すミュージシャンたちを尊敬している。けれど、最近SNSやファンの間で見かける「ファン」の在り方に少しモヤモヤを感じることがある。 よく目にするのが、「○○さんのファンになりました」とか「○○のファンを卒業しました」といった表現だ。音楽を聴くことに資格や義務が必要だとは思わないし、ファンであることは「役割」ではないはずだ。好きなら新譜を聴けばいいし、興味が薄れたら聴かなくなる。それだけのことだと思う。 しかし
アートにおいて、意図的に概念を込めることも重要ですが、無意識的な判断や即興的な選択がもたらす効果も見逃せません。例えば、マーク・ロスコの作品から学べることは、無意識的な選択がどれほど強力な表現を生み出すかという点です。ロスコは、自身の内面や感情を直接的に描写することなく、その作品に深い感情や思想を自然に反映させることができました。 このように、私たちが制作過程で無意識に選んだ材料や形、配置が、実は私たちの過去の体験や感情、内面的な概念を強く表現することがあります。例えば、特
僕は子供の頃、父の会社の人たちと焼肉屋で食事をしていた際、豚足が出てきたことで強い衝撃を受けました。それまでは肉を曖昧に「肉」として認識していたものの、その時初めて食べているものが「豚さんの体」だと認識しました。周りの人たちが楽しそうに豚足を食べる姿にさらにショックを受け、その体験がトラウマとなり、以来肉や魚といった動物の死体に対する強い抵抗感を抱くようになりました。物心ついてからは、肉や魚を食べることは自然の摂理だと理解しつつも、調理過程を目にしたり想像したりすると激しい抵
僕の頭の中には、10年以上も前から「頭の中の住人」と呼んでいるキャラクターたちが存在している。彼らは目に見えないし、耳で聞こえるわけでもない。手で触れることもできない。客観的に観測できない存在だ。でも、僕の脳は彼らの存在を確かに感じ取っている。これはまるで、統合失調症の人が幻覚で幽霊を見たとき、その幽霊が実際には存在していなくても、その人の脳内には確実に「存在している」のと同じ理屈だ。脳は、現実と想像、そして内的な体験を区別せずに処理することがある。その結果、僕が頭の中のキャ
自分はなんで絵を描くのか? と、頭の中で問われた。そもそも「絵を描いている」という自覚がない。「作っている」と表現した方がたぶん少し正確。表向きは作家活動、頑張ってる、応援してくれてありがとうございます、作品見てください、みたいな雰囲気を出してはいる。だけど本当は、ただ子どもの頃からものを作ってたし、それを大人になっても飽きずに続けているだけ。子どもの頃にお菓子とかの箱を切り貼りしてロボットを作った。祖母の連れてきたおじさんがそれを見て、陰ですごく褒めてくれたらしい。まだ小学
これも身体改造のひとつなのかな まだやってない、けど、少しだけやった プロに上手で綺麗でかっこいいタトゥーを入れて欲しいわけではなくて、自分の腕で針を自分の体に刺して痛みを伴いながら身体を変容させたい、みたいな そんな気分 多分意味なんてない。自傷行為と似ていると言えば似ているかもしれない。傷も血も好きだ。 呪術的な、あるいは通過儀礼的な儀式? 自分でも考えはまとまっていないけど 自分が自分じゃなくなるような あるいはこれまでの自分から解放されるような、もしくは本当
こんばんは。お疲れ様です。 ただの日記です 5月に入って、強烈に落ち込んでいた。他の人がごく当たり前に自然に行えることが、自分にはできないとか。みんなが当たり前に知っている常識を自分が知らないとか。どうして世間とここまで乖離してしまうのだろうとか。 ここしばらくは、いきなりギアが変わって、エネルギッシュになっている。絵をまた描き始めて、SNSを更新するようになって、電車に乗れるようになって、人に合うようになって、やりたいことがいくつか思いついて。 だけど、一日のうちに4
僕は左手にミューズに捧ぐって意味の英語のタトゥーを入れている。つまり僕はお客さんのために絵を描いているわけではない。商業的に売り上が立つとか、賞賛されるとか、そういうのは絵を描く目的にはならない。もちろん、僕も人間なのでお金があったりチヤホヤされたら嬉しい。でもそのために創作のレベルを落として誰にでも理解できて喜んでもらえる絵を商業的に描くことはやっぱりできない。他の人に(いい意味での)嘘をつくことは許せるけど、自分に嘘をつくと、あとから大きな鬱の波がやってきてしばらく絵が描
世間の多くの人はいまだに、いい絵=上手い絵だと思っているのかもしれない。美術教育のせいなのかなんなのかわからないけど。 SNSでも写実的な絵が評価されていたりする。でもそれはスポーツであって美術ではないのではないかと思う。いや、美術とかどうでもいいのかもしれない。わかりやすく足が速いという意味で評価しているのだろう。 アート。 そもそもアートって言葉を使い始めたら、意識の高い嫌な人だと思われてしまう(被害妄想?)。だけどアートほど面白いものはない。 いい絵ってじゃあなんなんだ
個展は夏の開催なので、まだ半年先だけど、もう半年しかないとも言える。コンセプトを考えることに苦手意識があるけど、自分の過去作を振り返ると繰り返し表現しようとしている自分のコアの部分やそれに付随する感情や思想や哲学がなんとなく見えてくる。それを言葉にして自己理解を深めてみる。 次の個展の構想を少しずつ練っている。文章でいう草稿のようなものはできてきた。でもほんとうにこれでいいのかは、もう少し時間をかけて精査する。 僕なんて、何にも考えないで絵を描いているというつもりでいたけ
暇だからタトゥーのデザインをしてみた。 これは羊女(というキャラクター)をメインモチーフにして肩に配置して、、あとは女性的な可愛らしい感じのモチーフを散りばめた。季節感とか合ってるのかわからない。たぶんモチーフ同士の組み合わせのマナーとかあると思うから合ってるかわからない。イメージは細い女の人が腕に入れる感じ。でもちょっと怖いかな。いかついかな。もっと可愛らしくて柔らかい感じにしたかったんだけど。あとで書き直すか。たぶん。
ふと鏡に映った自分の顔を見た。なんか疲れた顔してるな、そんなに疲れてるつもりはないんだけど。20歳の頃と比べれば少し老けたな。なんでだろう。しわがふえたわけでもないし、太ったわけでもないんだけど、なんか少し老けたなって感じがする。この前、30歳になった。早いな時間の経つのは。20歳の頃にTwitterで知り合った当時28歳の方に20代はあっという間ですよと言われたことを覚えている。確かにあっという間だった。でもなんか色々とあったなとも思う。でもやっぱもっと旅行とかしときゃよか
描くぞ描くぞーって気持ちになってる やるぞやるぞー なでもにかこかな とりあえず20号のキャンバスかってかた 727×606mmmmmm びーにのポスターと似たようなサイズ なのかな?わかんないけど 僕の中ではこれくらいはまだ中くらいの感じなんだけど、このサイズになると十万円こえるし、サイズ的にも日本のとくに賃貸とかだと飾りづらいだから売れづらい でもま、描きたいの描くしかないな 小さいのはドローイングとかで十分だ ちぢこまってたらいけない もっと1メートル半とかで描