音楽とファンという境界線:推し文化への違和感
音楽が好きだ。これは本当にシンプルな感情で、素晴らしい音楽を作り出すミュージシャンたちを尊敬している。けれど、最近SNSやファンの間で見かける「ファン」の在り方に少しモヤモヤを感じることがある。
よく目にするのが、「○○さんのファンになりました」とか「○○のファンを卒業しました」といった表現だ。音楽を聴くことに資格や義務が必要だとは思わないし、ファンであることは「役割」ではないはずだ。好きなら新譜を聴けばいいし、興味が薄れたら聴かなくなる。それだけのことだと思う。
しかし、SNSを見ていると「ファン同士の競争意識」や「他の誰よりも自分はこのアーティストを愛している」という自己主張が散見される。ライブに何回行ったとか、どれだけグッズを揃えたとか、そういった外部的な要素で「ファンとしての熱量」を示すことが目的化しているように感じるのだ。これが、純粋に音楽を楽しむという行為から遠ざかっているように見える。
もちろん、その人たちもきっと作品を愛しているのだろうとは信じている。だけど、ミュージシャンの外見や性格に強いプライオリティを置き、ある種アイドル視しているのではないかという印象もある。音楽そのものではなく、アーティストの「存在」そのものを消費しているように見えるのかもしれない。
僕自身は、ミュージシャンのファンを名乗ることが少ない。広く浅く音楽を聴くのが好きで、特定のアーティストに対して競争意識を持つことはない。グッズを大量に買い込んだり、毎回ライブに足を運んだりすることにもあまり興味がない。だから、ファン活動として金銭的な「貢献」をしない自分に、時折気後れすることもある。「貢献」という言葉自体、何か気持ち悪いと感じてしまう。
とはいえ、そういった熱心なファンの存在によってミュージシャンの活動が支えられ、その結果素晴らしい作品が生まれるのも事実だ。彼らがグッズを買い、ライブに参加することで、僕が好きな音楽が生まれ続ける環境が整う。それに対して感謝の気持ちがあるわけではないが、少なくとも彼らの行動がミュージシャンにとって重要であることは認めざるを得ない。
音楽を聴くことは、個人的な楽しみであり、他者との競争ではないはずだ。もっとも大切なのは、その音楽をどう感じ、どう楽しむかということだと思う。それが「ファン歴の長さ」や「どれだけのグッズを持っているか」といった指標で測られてしまうのは、音楽の本質からかけ離れているように感じる。