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仕事に「母性」は必要か?①

仕事において、私は若手育成がうまくない。
というか、うまくなかった。

あえて過去形にしたのは、最近、エーリッヒ・フロムの『愛するということ』という本を読んで、若手育成における自分の傾向や、それを受けて今後どうすればよいのかが少し見えてきたからだ。
実際に『愛するということ』から学んだことを活かして新卒と一緒に仕事をしているが、以前より段違いにスムーズに事が進んでいる。

私は「父性」側の先輩だった

『愛するということ』には、母性的な愛と父性的な愛について書かれている。
自分の解釈でまとめてしまうが、母性的な愛は「何もしなくても、どのような状態でも存在するだけで愛する、無条件の愛」。
父性的な愛は「自分の期待に応えたり、課したハードルをクリアすることで得られる条件付きの愛」。
そして子どもが健全に発達するには「母性的な愛」と「父性的な愛」両方が必要、ということだった。

若手育成に苦手意識を持つ私は、自然と子どもを若手に置き換えて『愛するということ』を読んでいた。
会社でも、「優しい先輩」側の人間が「新卒かわいい~」と言いながら何でもかんでも優しく接するのを見て、正直まったく共感できなかった私は、うっすら、自分は「厳しい先輩」側の人間なんだなと思っていた。
そして周りのように優しくできない自分に少し悩んでもいた。

しかし、先述した『愛するということ』の母性・父性に関する記述を読んで、優しい⇔厳しいは人格の優劣ではなく、母性的な愛を与えるか、父性的な愛を与えるか、の違いなのではないかと気づいた。

若手育成において、私は思いっきり「父性的な愛」しか与えられない人間だ。
例えば、私は「自分で頭を使って考えようとする」「若さや可愛さを武器に逃げようとせず、自分の能力でできるところまで勝負する」というようなことを若手に求める。
偉そうだが、これが愛を与える条件にあたる。
そのかわり、考えようとする人にはその人の考えをしっかり理解したうえで答えにたどり着けるようとことん付き合うし、自分の能力で真っ向からトライしたときには結果がどうであれ最大限ほめたたえる。
これが私なりの愛だ。
(こういった考えが時代に沿っているのか、若手からしたら暑苦しいのではないかという懸念もあるが、脱線するので一旦置いておく)

思えば、私もそうやって「父性的な愛」で育てられてきたし、そもそも一緒に仕事で成果を出さねばならない関係で「母性的な愛」を与えられるほど私の器は大きくない。

余談だが、1人、どうしても合わない当時2年目の若手がいた。
具体的な話は端折るが、なぜ合わなかったのかも腑に落ちた。
きっと、彼女は1年目で「母性」だけで育てられてきた(1年目の彼女の育成係も私は知っている)ので、母性を私に求める彼女とゴリゴリの父性人間の私では、需要と供給がこの上ないくらいのミスマッチだったのだ。

自分が「父性」側の人間だと分かり、かつ「子ども=若手」の健全な成長には自分側の「父性的な愛」も必要だと知った。
世間(というか弊社の雰囲気)が「とにかく若手にやさしく」に偏っている中で、自分が厳しすぎるのではないかと悩んでいた私は少し救われた。

だが、「子ども=若手」の健全な成長には「母性」も必要なのだ。
次からの記事では、「自分は父性」と気づいた私がどのように対策を講じたのか、タイトルにもなっている「仕事に『母性』は必要なのか」について改めて綴っていきたい。

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