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アトナンカのもの

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アトナンカなのかありがとう高橋なのか私なのか分かりませんが、今までのテキストとそれを作ることに関しての記事をまとめています。
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記事一覧

LLLLLLLLLLLLLLLLLLLL

2021年6月13日 収縮して、やっと平面からはじめる。 2021年6月14日 10。まだこれは、はじまらない。誰も創める行為をしていないから、辛抱 2022年6月16日 いつの事でも構わない、閉じた時誰も気にしない空間になる。 どこにも接続を許さない。 2021年6月17日 昨日は何も起こらなかったし何も記述しなかった。 2021年6月18日 歴史書は過去に書かれることは無いからして、今の都合の上でしか支えられる事しかない。ここから始まったかのような事を書くのは歴史の悪い性

広義の演劇と狭義の演劇への走り書き

私にとって演劇は広義の演劇ではないものです。  私自身は演劇をすることができないと思います。演劇形式に安心して沿って何かを作る事ができないのもそうですが、演劇が何であるかを考えれば考える程、いわゆる演劇形式が演劇の核心とズレていて、いやに装飾的なように思えて仕方が無いのです。(これが既にミニマリズム視点だなとは思いますが、私の様な素人や小演劇ではお金が無いのが現実ですし、演劇形式を印象付けている色々な要素を組み込む時間的・金銭的・精神的苦労は恐ろしいものです。)  私も「演

蜂の巣

今私はインスタレーション企画の思考中なのですが、改めて自分のかつて掴んだ感覚を認識し直して書き出しておこうと思います。 一年か二年ほど前 小劇場を蜂の巣だと思った事があります。 地下やビルの中に作られた劇場は、 大体同じような足音を立てさせる黒い空間になっている。 トイレの狭さも。ロビーの無さも。 大体そんな感じだった。 私は美術館も好きですが 白い展示室は美術館共通であったりしていて、 こういう所で美術館は小劇場との関連を感じます。 基本的に作品が動かない美術館

場に寄せて

芸術がその中で作為性に見切りをつけることは多くあると思う。 作為性では結局のところ、作者の野心や狭い解釈世界に留まってしまう。 そんな考え方が出来る。 そのようにして、 作為性を廃し、 偶然性や他者との間で生まれるランダムな出会いに注目していく 私もこういったスタイルにとても関心を抱いていて… ただ、慣れていない観客にとってこのタイプは 絡みづらく、難解で、前衛的で、らしくなく、作者資料をすぐさま見て、 「こんなの誰でも作れる」と言われてしまう。 ○誰でも作れる

『東急ハンズのエアコンの風を浴びてきました、何も買えずに。』のお知らせ

アトナンカです。 アトナンカの名前 ご無沙汰しています。 この度は「?」な上演の予告をしたいと思います。 タイトルは 『東急ハンズのエアコンの風を浴びてきました、何も買えずに。』です。 この上演は私以外誰も見る事はありません。 すいません。そんなん上演じゃないということですね。 今作は 一人で上演し、一人で見るものになります。 すいません。そんなん上演じゃないということですね。 上演日時は11月7日、8日、9日、の三日間深夜12時から。 すいません。そんなん

Pianoon

これをリピート再生にして私は聴いています。

通常本文に対して配置されるあとがきを本文から派生したものとして分離して置いておいた結果の。

農耕民族史B最終“遠隔”講義 ver3.9につけられていたものを分離した。 あとがき 孤独や、悩みや、煮え切らなさや、ややこしさとめんどくささ、これが空想の世界であるからとかに関わらない言葉の普遍的な無情さを出発点にしている。どうにもならない。その窮屈さから抜け出すため、自分を放り出すことを考え、今の生活のいっさいを切り捨てるのを考え、行動を計画して、最後に圧倒的な現実味の無さになかったことにする。 さらなる後記としての 読まないまま、薄目で眺めて欲しい文章↓ 文字は読

自由なクリエーションの不自由…??

何か事実を受けてこれは書かれてはいないけれど、 多分、誰か・いつかの場合に影響を持てるのではないかと思ってここに書く 書いておきます。 👍→💛 「自由であることで個人の創作が出来る」 という考え方に反論はあまり思い付かない。 自由が、ルールや規定の無いものであるとは言えないなと思う 本当に「ない」ところからクリエーションするのは違った無理を感じる。 分かりにくい、ですね、 芸術は社会があることで豊かになると思う という話で 私は不自由に対して豊かになるもの

言葉という奴について

言葉は無粋。人間の心からの行動をまったく崩してしまう時がある。 理由のない行動に理由を生み出そうとする、心は少し苦しむ。 なんとなくを認める事こそが、 人間が人間にできる優しさの一つなのだと思う。 言葉は何かをあきらかにするように見えてその実、大切ななにかを 分断してしまう。世の中にはすべて見えるべきではないこともある。 心は頭の中ではない。胸の中にありつづけるものなのだ。 台詞には心理がつきもの そう考えて、そして、間違えて、割り切れた心を再現しようとしてしまう。

アルク

私は歩くことが大変に好きな人間だ。 歩くことは人間の象徴 だからこそ自信満々に歩くべきだ。 とは言ったものの二足歩行というのはとても難しい!そもそもなぜか人間はいつの間にか尻尾を捨ててしまったし、頭も重くなってしまった。 なんでアンバランス極まりない身体で生きる事に決めたんだよ! 『バランスを保つことが難しいからこそ歩く』 最近私はこう考えている。 人間の身体はその二本足で安定して留まっていることはできない。必ず人間は足を動かしてしまう、右足を出すとバランスを保つ為に左

農耕民族史B最終‟遠隔”講義 Ver4.0

「農耕民族史B最終‟遠隔”講義」    ありがとう高橋 まえがき A Bは暗闇の中で物に埋もれている。 B Aは物の中で暗闇に埋もれている。 A Bは部屋の中に居る。 B Aは中の部屋に居る。 A Bは部屋から出たがったが、……諦めた。 B Aは、……諦めたが部屋から出たがった。 A Bは自分に似ているAが嫌い。 B Aは自分に似ているBが嫌い。 A BはAより優れていると思いたい。 B AはBより優れていると思いたい。 A そんな自分を信用していない。 B そんな自分を

読む身体

演劇を実行する中で読むことはとても蔑ろにされている気がする。 書かれている事を追ってはだめだ。 とか 台詞を覚えて暗唱できるのは基本だ。 とか 現場での文字は、声に対してやっぱり立場が弱い。 「文字よりも言葉の方が心が伝わる」 ほんとうか。 ニンゲンは言葉でも優劣関係が大好きです。 嘘と真実だったら真実という言葉の方が白い光にまみれていて、嘘は黒い煙がつきまといます。そしてどうせなら白い光にまみれたい事でしょう。 自然と人工だったら自然という言葉の方が綺麗に思

コンプレックス

アトナンカ

密接にかかわることのない時代にその奇妙な距離感を切り出してみたいと思ったりする。その中で生きて少しづつ疲弊していく僕たち。今こそ本当に自分の中を覗いて対話しなきゃいけない。と、思ったりもする 人間それぞれの内側はとても劇的なのだろうと思う。表に出さないことで築かれ、限定的な、自分にだけ伝わる音にならない言葉の世界。 人間の中には言葉が流れている。言葉と現実のものごとが結び付けられていき、現実を言葉にしてその人間の内側に取り込む。でも言葉にしない感覚の世界(人々が大人になる