LLLLLLLLLLLLLLLLLLLL

2021年6月13日
収縮して、やっと平面からはじめる。
2021年6月14日
10。まだこれは、はじまらない。誰も創める行為をしていないから、辛抱
2022年6月16日
いつの事でも構わない、閉じた時誰も気にしない空間になる。
どこにも接続を許さない。
2021年6月17日
昨日は何も起こらなかったし何も記述しなかった。
2021年6月18日
歴史書は過去に書かれることは無いからして、今の都合の上でしか支えられる事しかない。ここから始まったかのような事を書くのは歴史の悪い性分だ。


2021年6月20日
11。意図しない差の範囲

2021年6月23日
手に入らない可変コンセプトの値段、


2021年7月3日
記憶と記録の差異は明示性か、それは記号の有無ではなく

2021年7月7日
11というのは偶然。くっ付ければLになるとかそういうことではない。

2021年7月8日
10、333
2021年7月11日
二次元が三次元を自覚した時とする

2021年7月24日

どれくらいの時が経ったのかは分からないが、平面は立体を形成した。閉じた地獄の公開日、祝福すべき出来事である。平面が平面に向き合うことで光は弾き出され、頑丈な黒につまみ出され、入ってくることは無い。

ほんの少しの隙間を外から見つけたとしてもそれは取るに足らない隙間として四捨五入シーシャ誤飲。

想像を巡らせることを想像してくれ。その眼がモニターの光を見つめている内は君の眼がこの世界から君が離れる事を許さないだろう。許されるためにはいずれ目を閉じる必要があるから、それ知ってる?、

眼を開けたまま想像するのは案外できる。
要は態度の問題ですから、反省している表情という態度を取らなければ許されないのと同じように。黙祷の為に何となく眼を閉じることも、思いだすために上を見上げるのと同じように、想像している態度を取る必要がある。
眼を開けたまま想像することが案外できるとしても。

Lの箱と同じことが起きている。
閉じた頭蓋の中を誰が理解できるというのだろう。(「面壁者(小説「三体」に登場する異星人と対峙する秘密計画担当者の名前。自分の計画を頭の中に隠して権限を行使し、その計画を「破壁者(小説「三体」に登場する異星人(三体世界の住人)の指示を受ける人間で面壁者一人に破壁者一人が付けられる。)」に悟られたときのにその意味を失う)」も同じような考え方ではある。)

恐ろしく面倒な引用だろう。それに足りてもいない。
完結した論などほとんどなくなった。何かの引用なしに全ての思考を頭蓋の球体の中で完結させることは恐らくできない。

ただそれを可能にするのが「L」だ。

安全な実験室。もしや中に入ればイデアにも行けるかもしれない。

とにかくその実験室を創る為の手引きを今から行う。

まず白いLを見てから。
「この白いLは型紙によって3センチと6センチと9センチでできている、画材はアクリルのみ。筆による筆致ではなくスポンジによる斑によって差が生まれている。プリントと手作業の間を取るということ。筆による線は時間的なものの記録と同じになるから避けた。ざらついた表面を見る事はジェッソも無い茶の地の繊維や工場製造の窪みに注目することに近い。その平面性を憶えることを 見る とする」

画面を組み立てて直方体にする。

さて白いLが隠れた。

「内側のLを想像できるだろうか。Lの位置を思い出し、曲げた画面の角度に沿ってそのLを屈折させてくれ。その屈折した様を見る眼を直方体の中に籠めるだけ。」

直方体の中は暗いと想像できる?

本当にそうかは分からない。

直方体が閉じる瞬間に微かに小さい光が生まれているかもしれない。

直方体の中は観測できず、想像する事しかできない。

生命の可能性を直方体の中に置いて

直方体の中に生まれた生命にとってざらついた白いLは、
多分Lだと思われない。

その可能性が考えられるのは直方体の中で何世代もの生命や文明、
思考が重ねられた後の事。

「この世界がもし展開できるとしたら?」という問いかけが成されるまで。


2022年10月28日11時40分
《屈折可能なLビーム》の再販。諸々であと8枚になった。とにかく維持管理が難しく、個人的に持っていた《屈折したLビーム》のファイルはものの見事に部屋から紛失した。作っておいて管理ができないとは…情けない。



2024年4月30日20:38
《屈折可能なLビーム》の再制作を予定している。《屈折可能なLビーム》は先述しているように2021年に制作した作品。組み立て式の名刺入れの内側に図案を描いておき、購入者に名刺入れの組み立てか、そのままでの鑑賞・保管を選択させる。ものである。

2024年7月2日 11:11
《屈折可能なLビームス》の再制作と販売が終わった。Lビームスは買った絵に折り目を入れるチャンスを売るものでもある。
改めてLビームの説明をすると、組み立てる名刺ケースに白いLを描き、買った人が組み立てるかそのまま保管するかを選ぶもの。

箱を組み立てるというのは、絵のオモテとウラを箱のソトとウチに切り替える。その入れ替えや、一度組み立てた箱を開いてはいけないという約束は、赤瀬川原平の宇宙の缶詰(蟹缶のラベルを、開けた空缶の内側に巻き直してある)にやや近い、想像力を求めるものでもある。
だが缶詰のウチとソトを入れ替えて缶の外側全て=宇宙を想像させるのに対して、Lビームは組み立てる儀式を通じて自分自身を箱の中に入れようとする。

チェルフィッチュの岡田利規がやっていた俳優向けのワークで、自分の記憶の中の家をその場で、家に入りながら説明するというのがあった。その場に無い物を集中やパントマイムのような足取りによって素舞台に立ち上げる。

その内省的な創造力が演劇、というよりも劇場の条件を揺るがす力であるのは間違いないと思われる。※チェルフィッチュの素舞台との協働も多い、美術家の金氏徹平やコンタクト・ゴンゾの絡み合いは別にしても。
かそけき俳優の想像を観客が共振して受け取るような素舞台の演劇で、俳優が劇場空間そのものなのかもしれなくなってくる。話はそれたが、Lビームの想像は限りなくラディカルな演劇として構想した。
白いLのざらざらとした表面や反射、サイズを見た上で、箱を組み立ててそれを見えなくする。それから物理的な範囲を越えて、箱の中に自分自身が入る事を想像する。それがかそけき想像の劇場空間ということだ。


閉じられたLビーム

しかし。
再制作を通して演劇という部分よりも、ジョン・ケージやフルクサスの
「チャンス」を前に出すことにした。

2024年7月7日17:30

スコアシート

これは同作の指示書だ。
最初のバージョンから大幅に変更している。
青枠内は指示書になっている。詩やト書きの間として作りつつ指示文の位置関係をいまと可能性の下で大きいアクションや小さいアクションに分布させている。
可能性=チャンスという読み方で再解釈した結果と言ってよい。
演劇の戯曲は場合によるが、しなければいけない事(指示)が多く書いてある。その筆頭が台詞だが、ト書きなど指示し始めると尽きない悩みを抱えている。台詞の間に何秒の間を開けるか、どんな動きをするのか、舞台上の景色はどうなっているか。それらが上演や俳優の身体を指示・支持する。
不条理演劇やラディカルな戯曲はその指示についてかなり自覚的なものが多いと思う。昨年の卒業制作「あんぜんさんの訪れ」もそのうちの1つとして台詞以外にト書きが無く、できる事(可能性)が書かれている。

指示よりも可能性を提示するというのは、
被指示者に選択の余地を大きく残すということである。
演劇の実演や制作の段階に於ける指示を可能性に置き換える試みの先端として指示書を新しくしたのだった。

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