『ワクワクを求めて生きているの』改め…
【お題】
あなたは何を求めて生きていますか?
「〇〇を求めて生きているの」の「〇〇」に自由に言葉を入れて下さい。
朝井リョウさんの『死にがいを求めて生きているの』を読みました。
冒頭の【お題】は、本の帯にあった”朝井リョウさんサイン入り色紙プレゼント”に応募するためのお題です。(プレゼントはすでに終了)
みなさんは、〇〇の中にどんな言葉を入れますか?
私も考えてみました。
朝井リョウさんが、作品を通して読者や世の中に訴えかけたいことはなんだろうか?
直木賞受賞作『何者』を読み、作品そのものも面白いけれど、何か朝井さん自身が気になって気になってしょうがない!
私はえぐられなかった『何者』
えぐられないからと言って心に響かないわけではなく、何だかよくわからないけどものすごい魅力を感じました。
その理由を自分で探してみたいと思い、2冊目『死にがいを求めて生きているの』を読みました。
物語を純粋に楽しみたいという気持ちではなく、どちらかといえば「朝井リョウという人を知りたい」という気持ちで読み始めました。
『何者』ではえぐられなかったけど、次こそグサリとやられるかもしれない。
カマキリのごとくファイティングポーズをとって読み始めましたが、『何者』に引き続き、この本でも私がえぐられることはありませんでした。
だけどこんなに物語に入り込んで、面白いと感じるのはなんでだろう?
テーマは「自分探し・生きがい探し」
「うん、わかるよ、私も同じだよ。」って、私が自分事として、もっとも共感しづらい分野のひとつです。
noteで初めて7000字を超えました。
私自身の「振り返り」として、昨年締めの記事にしようと頑張って書きましたが、あまりに長くなったため、大晦日に投稿しづらく断念した記事になります。
とても長いですが、「自分探し」に迷ったことがない私視点の【自分語り感想文】を、最後まで読んでいただけたらうれしいです。
(前書き1100字/全7400字)
私にとっての”朝井リョウ作品”の魅力は、私が知らない、私がまったく理解できていない世界を見せてくれること。
もう一人の大好きな作家さん喜多川泰さんは、幸せオタクの私にとっては、今まで学んできたことを復習させてくれるような、学びが物語となることで更に深く腹落ちさせてくれるというような、毎回「これはすごい、なんてわかりやすいんだ!」と唸ってしまう表現が多く、大きな感動をくれる作家さんです。
反対に、朝井リョウさんが描く「自分探し・生きがい探し」といったテーマは、私がほとんど通ってこなかった道です。
『何者』の感想記事にも書いた通り、私は若いころに何かに真剣に打ち込んだ経験がなく、だから大きな挫折も感じたことがなく、「何者かになりたい、ならなければ」といった真剣さも全くなく、「いかにラクして楽しく生きていけるか」ということをただただ考えてきた人間でした。
そしてそんな自分を、過去も現在も、まったく否定していません。
こうした気持ちを持ったことがなく、わかりたくとも、私の経験値ではちゃんと理解することができない世界です。
『何者』
『死にがいを求めて生きているの』
このふたつの本の中に、私は自分と重ねられる登場人物がほとんどいませんでした。
なぜなら、朝井さんの本に出てくる人たちは、どんな方向を向いていてもそれぞれとても一生懸命だからです。
今の私が朝井さんの本を読んだとき、登場人物たちに感じる感情は「誰かにイタイと思われても、たとえ空回りしていても、みんなこんなに真剣で一生懸命ですごい。私が若い時なんて、こんなこと何も考えてこなかったよ、みんな本当にすごいよ」
noteを始めたころに、大学生や20代前半の若い方たちが書かれるnoteを読んだとき、同じようにビックリ感動した記憶があります。
本に描かれているのが若者ということもあり、自分と重ねて読むというよりも、子供を応援するお母さん目線でずっと読んでいました。
『死にがいを求めて生きているの』は、主人公の2人を、小学生・中学生・大学時代と、それぞれ別の人の視点から描かれた物語。
中学生「坂本亜矢奈編」を読みながら、ふとこんなことを感じました。
「私はこの本を全然読めていない、お母さん目線で読んでちゃいけない、朝井リョウ作品をまるで攻略したかのようにこのまま読んでちゃいけない」
何かわからないけどそう強く感じ、そこから抜け出すために他の人の視点が必要だと思ったため、noteでこの本の感想記事を探し、いくつか読ませていただきました。
著者朝井リョウさん、そして主人公二人と同じ世代だという方の感想文を読んだとき、むかし母から聞いた話と、幼稚園年長から小4までチックに苦しんだ息子のことが思い出され「やっぱり全然読めてなかったな」と実感し、その感想文を読みながら涙が出てきました。
母の話は、母が小学5・6年のころに、運動会のお弁当を親子で食べるというプログラムが変更された話。
「親がこれなくて一緒に食べられない子がいる、かわいそう」
そんな意見が学校に寄せられ、親子一緒のお弁当は廃止になった。それに対し、激しく泣きながら訴えた男の子がいた。
その子の家は両親ともに仕事で忙しく、運動会以外の行事はすべて欠席、一年の中で唯一運動会だけは仕事を休んできてくれた。両親と食べるお弁当を、その子は毎年とても楽しみにしていた。
「今でもその時の光景が忘れられない」と、母が話してくれた話。
私の息子は気弱でおとなしく、友達に嫌なことを嫌と言えず、友人関係ではいつも我慢している子だった。
息子の通っていた幼稚園では、運動の時間は陸上の専門コーチが外部から来ており、かけっこやハードルなど陸上競技が得意な息子はコーチにたくさん褒められ、お手本にいつも指名されていた。
たとえ嫌なことがあっても、その自信がずっと息子を支えてくれていたと思う。
小学校に上がると、陸上だけでなくボールを使った競技や鉄棒、縄跳びといった、息子が得意ではないものが「体育」で多く行われるようになり、息子は「体育」を嫌いになってしまった。
「辛いこともあるけど、僕にはこれがあるんだ!」
そう思えるものを失ってしまい、学年が上がるにつれ息子のチックはどんどんひどくなっていった。
「首のカクカクが止まらない! 頭が痛い、助けて!」
そんな息子を救ってくれたのは、小4で始めたオンラインゲーム「フォートナイト」だった。
オンラインでのやりとりを通し、友人に気持ちを伝えられるようになったことも大きかったけれど、「俺にはこれがある!」と自信につながるものが出てきたことが、チックの改善に大きく影響したと思う。
『死にがいを求めて生きているの』の、帯にはこう書かれています。
大きな変化があるところには、それを辛いと感じる人がいる。
「ナンバーワンよりオンリーワン」
その”素晴らしい価値観”への変化から生まれた、新たな生きづらさがあった。
この生きづらさを自分の経験と重ねて実感することが、私には到底できません。
でも母と息子の話を思い出し、これと同様の時代を生きる息子を少しでも理解するためにも、「みんながんばってるね」なんて生やさしい視点ではなく、もっと真剣にこの本を読みたいと思いました。
大学以降を描く「安藤与志樹編」「弓削晃久編」では、子供のころよりもさらに登場人物たちの痛々しさが増していきます。
こんなこと書かれたら、どうしても息子と重ねてみてしまうわ!!
本を読み進め、私には本当の意味で理解することのできない登場人物たちの辛さを想像しながら、「私は今までどれだけお金に守られてきたんだろうか」という気持ちが徐々に湧いてきました。
何かに真剣に打ち込んだことがない私が、たとえネガティブな執着であっても、長い間継続して頑張ってきたものが貯金です。
母からそう言われてきた私は「お金がなければ自由になれない」と、ずっとずっと自由を得るためにお金を追い続けてきた。
若い頃のこのお金への強い執着が、ずっと私を守ってきてくれた。
100万円、500万円、1000万円貯めても「まだ足りない」と、どこまでいっても満足できず追い続ける辛さはあったけれど、執着してきたものがお金であったおかげで、私は与志樹たちのような苦しさを感じずに済んだかもしれない。
執着の対象がお金だったことは、とてもラッキーだった。
そう思わずにはいられない苦しみが、本の中にはありました。
私にとって執着の対象としての「お金」は、人からの承認は全く必要ありません。
フォロワー数やスキ数のように、私の持つ数字が他人に見えるものではないからです。
また、お金は人と比較してしまいがちなイメージがありますが、実際はそんなことはありませんでした。
身近な人たちは誰一人、自分の年収や貯金額を話してくれることはなかったからです。
ただ唯一嫉妬してしまったのは、会社の同僚や友人が結婚や出産で退職していくときでした。
「みんなの旦那さんは、妻を専業主婦として養える稼ぎがあるんだね、いいよね」
これだけは、たとえ表面的な部分だったとしても目に見えてしまったから、「おめでとう」と言いながらも、心の底では嫉妬していたなと思い出します。
でもそれ以外は、あとはひたすら自分の積み上げていくものと向き合っていくだけ。他人は全く関係ありません。
しかも「お金」というものは、自分の努力がしっかりと目に見えるカタチで少しずつでも確実に積みあがっていくものです。
そして、ネガティブな感情で集めてきたお金たちも、いまワクワクで集めているお金たちも、お金はお金です。
そのお金たちはどちらも私を不安から守ってくれているし、お金のストーカーだったころからずっと、お金は私を守ってきてくれてたんだな。
私の心を守ってきてくれたんだな。
そんなことをずっと考えながら読んでいました。
そして、本の後半部分に、それを証明する言葉が出てきます。
だよね、やっぱりそうだよね。
「お金」のおかげで、私は与志樹たちのような苦しみを感じずに済んだんだよね。
以前読んだ、紀里谷和明さんの『地平線を追いかけて満員電車を降りてみた』にあった言葉を思い出しました。
大人たちが子供に良く投げかける言葉。
「大きくなったら何になりたい?」
この言葉を「ひどい質問だ」と書かれていて、とても衝撃を受けたのです。
これを繰り返し聞かれることで、子供たちに「何かにならなければならない」という強迫観念を植え付けてしまうと。
私は子供のころに夢なんて持った覚えがなく、大人たちや授業や文集などでそんなことを聞かれたとき、なんて答えていたかも全く覚えていません。
なりたい職業なんて何もありませんでした。
そんな私を「何かにならなければならない」という不安や悩みから守ってくれたのは、まぎれもなく「お金」の存在だったと気づくことができました。
高校では求人の中から成績順で会社を選べたため、少しでも条件のいい会社への推薦を得るために、そのことを知った高2から、勉強嫌いな私が必死に勉強しました。
お給料が高く、休みが一日でも多い会社を獲得するために。
入社した会社の仕事は、別にやりたいことでも何でもありませんでした。
「やりたい仕事ではない」
そんなことに、私はなんのこだわりもありません。
完全週休二日制と、まぁまぁのお給料、まぁまぁのボーナスが、私が求めるものだったから。
生きがいや自分探しとか考えたこともなく、ずっとずっと真っすぐにお金と自由を追い求めてきました。
特別やりたいこともないんだし、休みが多くてブラックじゃなくて、お給料を少しでも多くくれる会社が、私にとって「一番いい会社」でした。
それを追い求める自分を、恥ずかしいとか情けないとか思ったこともありません。
でも、もしも私のお金に対する価値観の中に「お金お金というのは卑しい、お金を求めることは恥ずかしいことだ」という前提が少しでもあったとしたなら、私は自分の生き方に、心の奥底で罪悪感を感じてしまったかもしれません。
もし自分の決断に自信が持てない私だったら「お金のために好きでもない仕事に就く自分」を正当化するために、好きなことを追いかける人に対して「現実みろよ」とか、他の人を否定する必要があったかもしれない。
私は高校卒業して社会に出てはじめて、お金を好きと言ったりお金のことを話したりすることが、一般的にあまり良いイメージではないんだということを知りました。
それを知っても、世間はどうであれ、両親のお金との向き合い方をずっと見続けてきた私の中には、「お金と向き合うことは、自分の人生と真剣に向き合うことである」という揺るがない価値観があり、誰に恥じることなく、堂々とお金を追いかけてくることができました。
やりたい仕事かそうでないかなんて関係なく、少しでも多くお金をくれる会社を選ぶことに、なんの疑いも罪悪感もなく生きてきたのです。
本当にそうだなと思うのと同時に、この本に出てくる登場人物たちが「私の中にもいるんだな」と感じた瞬間でした。
🐸
タイトル
『ワクワクを求めて生きているの』
この記事を書いている途中に「いや、私が求めているのはワクワクではないな」と思いました。
「ワクワク」は、私にとって最重要キーワードです。私の生き方を語るうえで、この言葉を外すことはできません。
でも「ワクワクを求めている」という言葉には、なにか違和感を感じました。
ワクワクは求めるものではなく、本当の本当の私の心に、自然と湧き上がってくるものだよね。
どうしてもタイトルにワクワクを使うのであれば「ワクワクに従って生きているの」になるんかな。
ワクワクに従って生きていけるように、私は自由やお金を今も追い求めて生きているけれど、その二つはこのタイトルとして主役にはなれないな。
私がこんなに「ワクワクに従って生きていきたい!」と思っているのは何でだろう?
最期の瞬間に「楽しかった!」とワクワクポーズで旅立つために、自分の心に生まれた「ワクワク」を、こんなにも大切に生きているのかも。
だったらタイトルは、
『ワクワクを求めて生きているの』改め…
『死にがいを求めて生きているの』になるのかもしれない。
「本当の本当の私」の声をしっかりと聴けるようになるために、私が最初にやってきたことは、まず小さな買い物で「自分の好きなものを選ぶ」ということでした。
「220円の黒豚マンが食べたい!
いや、130円の普通の肉まんにしておくか。」
「ハンバーグにとろ~りチーズソースのトッピングがしたい!
いや、200円もする、やめておこう。」
「本当の本当の私」の声を無視してたくさん我慢してきました。
こうした小さなことから自分の本当の声を聞いてくることで、わざわざ求めることをしなくても、勝手にワクワクが湧いてくるようになりました。
この本を読んで、長々と私のことを語ってきたけれど、私には理解できていないことがたくさんあります。
朝井リョウさんの描く登場人物たちに「そうだよね、その気持ちわかるわかる」と、大きな共感を感じる人がこの記事を読んだとき、何かすごい違和感を感じるかもしれない。
でも、ここに書いたことが、わからないなりにこの本を読んで私が考えてきたことであることは間違いありません。
そして、私は登場人物の一人「安藤与志樹」と息子を重ねて読んでしまったけれど、私の息子はこの先の人生で「自分なりのしあわせ」をしっかりと見つけていける人間だと信じています。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
ブログミュージックビデオ(BMV)「あとひとつ」
cover 誰か私に名前を。さん
illustration くーや。さん
movie ミイコ